「女・アート・イデオロギー」を読んで

読みました。
前ノートに投稿した本の後も何冊か読んでるんだけども
この本も以前勧められたものだったし、色々考えさせられたので
記録として残しておこうと思う。

この本です。

以前と同じように
心にささった所を引用していきます。

①102ページ
ラムは、刺繍が「本当の」仕事とは見られていないために、女には「本当の」余暇もないと論じている。そして、刺繍に没頭することで女は空虚な暮らしに替わる生き甲斐を見いだすが、同時に、もっと有益で報われる活動を見つけるチャンスを失うのである。刺繍は女の時間とエネルギーを食い尽くすが、金銭に換算すれば、家計への貢献は取るに足らないものである。

②112~113ページ
女が家庭でする活動が、男が家の外でする活動より低く位置づけられるのはなぜだろうか。クロード・レヴィ=ストロースが展開した構造主義人類学の理論と分析をつかって、フェミニスト人類学者は女を男の下に位置づけることを問題にしてきた。(中略)人間は、動物と違って自分が生きるための手段を自分でつくり出すというのが、人間社会のきわだった特徴だからである。人間は原材料から道具をつくり、家や、衣服、台所用品をつくる。人間社会の特徴は、原材料を加工して、文化的な人工物をつくるということである。「女は自然で、男は文化か」という論文のなかで、シェリー・オートナーは女が二番手に位置づけられることの納得できる説明のひとつとして、女の役割は象徴的にも構造的にも自然と文化をつなぐ位置にあると見られていることを論じている。まず、子供を産み、授乳の主たる責任を担うという役割のために、女はより自然に近いと考えられている。しかしその一方で、子育てにともなう女のほかの役割、たとえば子供のために料理をしたり、子供の教育や社会化に責任をもつことは明らかに文化的で社会的なことである。しかしこうした役割が果たせるのは、ある特定の場所、つまり家庭である。

③184ページ
絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的、社会的記号について熟知している(つまり描かれているものが象徴的レヴェルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。芸術は社会を映す鏡ではない。社会の諸関係をいくつもの記号からなる図式にして伝え、提示しなおす(re-present 表現する)のが芸術であり、それらの記号が意味あるものとなるには、読解力をもち、一定の条件を備えた読み手が必要である。このような記号が含意する、多くの場合意識されない意味のレヴェルにおいてこそ、家父長的イデオロギーが再生産されるのである。

④222ページ
どう描かれたかより、なにが描かれているかを重視したそれまでの近代美術と違って、抽象表現主義では描くという行為そのものが強調され、その体の動きと抽象的な形、色彩、線をつかうことで新しい意味が生み出されるはずであった。

⑤259ページ
美術史は女の芸術表現を無視し、見くびり、邪見に扱ってきた、というだけの単純な見方はやめなければならない。真剣の問うべきことは、女は今ある男性支配の美術界に参加し、そこで認められるための闘いをするべきかということである。女の作品の価値は、男であれば男であるがゆえに問題なく達成できる「客観的」と言われる基準に達しないというのではない。それどころか、女の作品は、その基準の生産と再生産に重大な役割を果たしてきたのである。

①は1500年代~1700年代位の女性の手工芸についての章で書かれていたもの。手工芸は「芸術的」ではないとされていた時代。「花嫁修業」のひとつとして刺繍が重視されていて、収入があってもおこづかい程度しかもらえない「アマチュア刺繍家」が多かった。そんな中メアリー・ラムという女性は「職業的刺繡家」として報酬を得ていた。そのラムの主張を筆者がまとめてくれている。
まじこれな。と思った。
プライベートと仕事がごっちゃになって「今これ仕事?趣味?」ってなる。
まぁ私もよくなるけど笑 フリーランスあるあるよね。
だけどそこの線引きがちゃんとできてたり、楽しめる人がプロなんだと思う。

②は、何となく感じていたことを文字にして下さった!と思いました。
これ、二つの弊害に受け止められる。ひとつは単純に「家庭的な事を見下す」ことと逆に「神秘化」すること。
「見下す」ことに関していうと「家の事ばかりやってて楽してていいね」みたいなパートナーからのパワハラ?モラハラ発言行動があるという弊害。
「神秘化」は妊娠・出産・育児を美しいものや神々しいものとして捉えて直視していない弊害。私は母に「母親になったら育児は自然にできるものよ」と言われて「世のお母さんってやっぱすげえんだ…!」と小さい頃アホみたいに嬉しがってた事があったが、30過ぎて子供がいる友人から「育児はマニュアルだよ。覚えるもんだよ」と言われて目からウロコ!になったことがあった。そういう神秘的なものとしてしまう事で世の男性が家庭に入っていかなかったり、妊婦さんの悪阻やマイナートラブルが医学的にまだ発展途上という事が起きているんだと思う。

③④は私の個人的なメモ。

⑤はじゃあこれから私たちはどうしていけばいいんだ!という疑問に対してのメッセージだと思う。


全体を通して思ったことは
欧米のフェミニズムをそのまま日本に適応しちゃダメだなと。
確かに日本も「男尊女卑」という言葉があるが、欧米に比べればそんなにひどい歴史は辿ってないのかなと感じた。私の勉強不足もあるかもしれませんが。
それに女性の敵は女性とも思った。
「主人や男性を立てないといけないから」と、その生活に慣れてふんぞり返ってる男性を作ってしまっているのは女性のせいな訳で。
私個人の話をすると
うちの一族は女性が強く(笑)家でみんなでご飯を食べる時は、男性も女性も台所に立ったり、色々動いていた。「お母さん、ビール」なんて言った日には大変な事になる(笑)。
だけどある日、地元の人たちが集まる食事会みたいなのに参加したら、男性はずっと座りっぱなしで女性が終始動いていて、ろくに飲み食いできてなかった。正直びっくり!したし、その場にいた男性も女性も軽蔑してしまった。だって女性が動かなくちゃいけないルールなんて勝手に自分たちがつくり出してるだけだから!男性だけが悪いだけじゃない。動いてる女性もいけない。
そんな構造をつくり出しているのは男性だけじゃなくて、女性にも原因はある。

今回の読書はそれを再確認した時間だった。

①も②も、そういう時代背景にしたのは男性からの政治的な圧力があったとはいえ、それに従順だった女性もいたわけで。

なので「今のこの女性の生きづらさは男性がすべて悪い!」みたいな考え方はしたくないし、これからもするつもりはない。
前も書いたかもしれないけど、これからの時代は「女性が~」「男性が~」なんていう発言はナンセンスだと思うし。

でも区別は必要。DNA的に体も違うし、考え方も違う。
そこは理解していきましょ、と。

私は女性であることがここ6年位でやっと楽しくなってきたし!

今回も全然まとまらねえな!笑

とにかくこの本も面白かった!
ご興味のある方はゼヒ!

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