視線と差異を読んで

2023年11月からインプットシーズン突入な私。
とある作家さんに刺激を受け
「私も勉強しよう!!インプットしよう!!」
と決意。
手を動かしてないと不安になる性分。
でも最近自分のアウトプットにも限界を感じていたので、いいタイミングだなと思った。
インプットといったって、闇雲にしてもダメ。自分の興味のあること…??
そうだ!ジェンダー・セクシャルだ!!

小さい頃から
「なぜ自分は女性として産まれてきたのか?」
「なぜ私は女性ではなくて男性が好きなのか?」
「なぜ女性の偉人って少ないのか?」
と疑問に思っていた。

そんな中、とあるイベントに参加して、とある先生にすごく勇気を出して声をかけさせていただき(もともとすごくキンチョウシィ)オススメの本を教えていただいた。その中の一冊が
グリゼルダ・ポロック著
「視線と差異 フェミニズムで読む美術史」
だった。

(ちなみにその先生はコロナ前に違うイベントに出られていて、その時に「これから作家をしていくと必ず『女性であること・アジア人であること』で意見を聞かれるときがくる。その時に自分の意見を言えるようになった方がいい」とアドバイスをいただいて目から死ぬほど鱗で、その後の私の制作にかなり影響を受けた)

感想を書く前に、私の考えるフェミニズムを伝えると…
「女性も男性もそうでない人も選択できる」
女性だから子育てに集中しなければならない。
男性だから仕事を続けなければならない。
性別によって役割分担がある。
そういうのめんどくね?!もう好きにしようよ!もう令和だぜ?
でもな自分で判断する事に今より責任を持とう。
親がそうだったから、社会がそう言ってるからなんて
言い訳は聞きたくねぇ!
というのが私の考え。

それを踏まえて感想を書こうと思う。

本の内容はこのサイトを見てね。
本の説明をするのめちゃくちゃ大変…!
視線と差異―フェミニズムで読む美術史 (ウイメンズブックス) | グリゼルダ ポロック, Pollock,Griselda, 弘子, 萩原 |本 | 通販 | Amazon

読書感想文ってどうかくんだったっけ?
忘れちゃったから印象的な言葉を並べて書こうと思う。


①15~16ページ
文化的行為とは、美的感動をかきたてられる美しいモノをつくることではなく、意味表象の体系、「表現」の行為であると定義された。その行為は意味をつくりだし、その意味を鑑賞者が消費する位置をつくりだす。

②48ページ
評論家は、単にその作品についてのコメントを述べていると見せて、作品の意味を、評論家自身のイデオロギー的なイメージに塗り替えている(つまり作品を現在化している)。

※この文章の前の部分から大事で、全員の評論家はがそうじゃない事を声を大!!にして言いたい!!!

③136ページ
ルブラン夫人の作品はよく描けているものの、彼女が新しく生みだしたものはなにもない。彼女ならではのなにか独自のものの見方、表し方を編みだすことができず、彼女のスタイルをつくることはできなかった。

④206ページ
※クリスティナ・ロゼッティ「画家のアトリエ」という詩

⑤229~232ページ
ブルジョワ家族という社会制度のなかでつくりだされた現象で、たとえば子供の世話は、母親による道徳的陶冶と、女の使用人による毎日の肉体労働とに分かれていた。母でありレディーであるほうの女は、男の子にとって理想の、はるかな憧れの存在である。彼女は、使用人と乳母のおかげで、手が汚れるような身体的接触をすることはなく、それは結局、彼女をほとんど肉体なしの、性的でない存在だと思わせる。女の使用人はそれとは著しく対照的(中略)この分業は、子供のセクシャリティとジェンダーを育成しながら、同時に禁止を課し、また、確立しながらそこ方向を定める。フロイトの分析によると、成人男性が愛情と官能の理想化一体化を手にすることができないのは、理想の極北にある禁断の母と、性の対象として見下される女の分裂のせいである。


⑥241~242ページ
想像期というのは、子供が、みずからの他者性にいやでも気づく瞬間を意味するが、こどもはその他者性を二つのレベルで理解する。ひとつは、自分が母親のからだとは別ものであるという理解、もうひとつは、じぶんが独立した統一体である(中略)という理解である。(中略)差異がもたらされることで、母と子の想像上の統一性がうちくだかれると、子供は、その際の両項目中のひとつを自分の位置として採用するほかなくなる。つまり男ないしは女の主体という位置につくほかなくなり、やがて、愛の対象となるだれかを見つけて、母を諦めるのである。

⑦266ページ
フェティシズムが支配される体制では、見る者は彼/彼女が見ているその対象から切り離されると同時に、想像の世界に魅せられて一体感を抱かされもする。そこでは、脅威となりかねない認識は美しい視覚的イメージによってなだめつけられる。ブレヒト式の遠隔化がねらいとするのは、鑑賞者を文化の生産の当事者とし、彼/彼女に世界の当事者として活力を吹きこむことである。

⑧268~269ページ
フェミニズムに立つ文化の活動の多くが、まずは無批判なリアリズムであった。(中略)しかしまもなくフェミニストは、隠されていたことを見えるようにしたいという望みだけでは新しい認識は生まれないことに気づく。(中略)「現実をつかむには、視界という鏡に映った像をとおしてではなく、距離をおいた分析によってでなければならない。(中略)」そうなると、フェミニストの立場から、階級的にも人種的にも分断された父権的社会のなかで女たちの受けている抑圧がどういうものかを表現しようとするアーティストは、その抑圧の外観や症状を描写するだけでは満足できなくなる。(中略)したがって独特の社会介入行為としての芸術は、統一ではなく矛盾であり、反映ではなく構築であり、意味ではなく探求であり、教育ではなく行動である……要するに、芸術は行動を実現するための問いをつきつけなければならない。

⑨277ページ
スティーブン・ヒースは、イデオロギーに満ちた表現言語と表現様式の解放を称して、「とりこみ解除」(depropriation)と言った。

⑩297ページ
作品を前にして「これはなにを意味しているんだろう」と問うのではなく、またその答えが見つけられずに「どうして私はこうバカなんだろう」と嘆くのでもなく、われわれが迫られる問いはたぶん「この作品の創造性に私も参加するには、どういう知識が必要だろう」といったものだ。

いっぱいだぁ…(笑)でも全部大事って思ったんだよぉ…

もともと思っていたけども今のこの性別によって生きづらさを感じる要因は、社会にあるのだなと実感した。②⑤⑥はブルジョワ時代の話だから今とは時代が全然違うけれども、根本はここにあると思う。
⑥に関しては、私の事で言うと、母とからだが離れたのは遅かった。20代後半、一人暮らしを始めた頃で「あ、お母さんはお母さんなんじゃなくて、人間なんだ」と頭でわかった。でも今30代後半に(!)なっても、正直心が追い付いてない。母を否定する事は自分を否定する事になるんじゃないかと不安になってしまう。
もしかしたら、自分の女性性について考えるためには、母との関係を考える必要があるのかもしれない。そう考えるとすごく心がブレーキをかけるので猶更やらないといけない事だな、と今感じた。

①⑦⑧⑩はほんまこれ。と思った所。
先日、国立近代美術館で「女性と抽象」という展覧会を観に行った。
それで本当に分からなくなった。
作品たちは「女性が描いた」と言われなければ分からない。じゃあ「女性作家」ってなんなん?「女性」というジャンル分けなんて古い。(何ならこれからの時代「ジャンル分け」自体がナンセンス。)それに今は女性作家はいっぱいいる。そんな中私は女性作家としてどうしたらいいんだ…??????????と沼にはまってしまった。
※展覧会自体は素晴らしかったので是非行ってください。
そんな中勧められたのがこの本だった。

⑦にあるように作品と鑑賞者が対話できるような余白が必要だなと感じた。私の絵は情報が多すぎる。もう少し余白をつくろうと思う。

⑨のことばは「かわいい」と思った。
日本人は「フェミニズム」「フェミニスト」ということばに対してどうも拒否反応を起こすような気がする。何か「過激女性解放活動家」みたいにとらえちゃう気がする。(私も以前はそうだったし)だからもっと「フェミニスト」「フェミニズム」ということばをかわいくしてほしい。ギャルが考えてくれないかなと勝手に期待している。(笑)

③は当時のメアリーカサット(印象派時代の女性作家)への評論文。これを読んだ時に私は泣きそうになってしまった。作家が「女性」という色眼鏡で見られるだけでこんなに本質をみてくれないんだ…!とビックリしてしまった。
今、私の作家活動はまだまだ発展途上で、もっと色んな人に作品を観てもらいたい!と強く思っている。でもなかなかうまくいかなくて悔しい思いをしている所だ。
「関心をもたれないことは拷問に近いこと」だけど、まさにそれを感じている。
でもメアリーカサットのように実力も知名度もあるのにこんな評論文をかかれるのか…もしかしたらトータルで見たら私と同じくらいの地点にたってるのかもしれないと思った。
④の詩もそう。
こんなに兄弟妹間で捉え方が違うんだ…!と当時の性別による教育の違いを感じてしまった。
時代が違うと言われればそれまでなのだけど
そんな時代に戻るのは絶対イヤだ。
例えこれから男女の差がなくなり、それで苦労する事が増えたとしても
私は性別によって差別したりされたりすることは絶対イヤ。
それだったら苦労する方を選ぶ。

今回この本を読んで思ったのは
「色んな人の意見を聞こう」だった。
自分と違う意見も聞いたり、
世代や性別が違う人の話を聞きたい。
⑧の終盤のことばは本当に刺さった。
「矛盾」「構築」「探求」「行動」
これは制作する上で全部やることだと思った。
でも私の中で昔と違う所が、意識が自分の中だけではなくて外に向いているということ。
どっちがいいということじゃない。
今はそんなモードなんだよね。
色んな人から色んな意見を聞きたい。
前は自分の中だけでしか考えてこなかったことを、色んな人の意見を聞いて咀嚼したい。
なので私から急に連絡があってもビビらないでおくれ。
話が聞きたいだけだから。(笑)

…なーんて偉そうなこと書いちゃったりして。(笑)
本当に稚拙な文章かくなあと反省。
次の制作に対しての自分へのメモとしてかいてるから
読みにくい部分もあると思うけれど
ここまで読んで下さったみなさま、ありがとうございます。

またインプットしたら書こうと思います。

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