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令和6年能登半島地震に思う

自分は石川県に生かされている。

穏やかな元旦の夕暮れのひと時を直撃した能登半島地震。それから日が経つごとに、その思いは深みを増している。

学生時代にバカをやって過ごしたツレは七尾と金沢の野球小僧。

氷河期と称された就職活動を乗り越え、入社したのは石川の地元第一紙。

そして、現在の旅行業務で和倉温泉をはじめとする北陸の温泉旅館を紹介するチラシを北陸三県の地元紙に折り込み、電話で同地域の顧客とやり取りをし、旅館を手配してご飯を食べている。

今年も3日にチラシ折り込みを予定していた。

しかしながら、予想だにしない元日の地震。

年末年始のスケジュールで折り込みのキャンセルや延期が利かず、結局そのままとなり、加賀屋をはじめとする和倉温泉の旅館を全面に出した今年のチラシは、同温泉地が全館休館の中、一層悲しく映る。

広告効果はほとんどなく、やるせなさと行く先の不安で何度もえずく。

コロナが明けて、さあこれからという時に何でこんなことに。

しばらくは悲観ばかりで、どう生きればいいのか分からなくなった。

前職の地元紙は、地震の詳報を各地域に分け、記者名付で記事にしていた。

そんな中で見つけた一つの記事。

司法・警察担当をしていた記者時代、上司のサツキャップとしてしごかれつつも、ともにネタを追いかけた先輩のものだった。

https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1281021

切迫した情景が読み取れる、心に迫ってくる記事を見て涙がにじむ。

取材対象者は匿名で、写真は別の被災地のもの。あれだけ漢字の名前と読み方年齢を聞き出し、写真を押さえろと厳しく指導していた先輩が、その体裁をなしていない。きっと、それどころじゃないほどの心身極限の取材だったのだろう。記事ルールなんてどうでも良いほどの響く原稿だった。

そして、思い出した。

電話で温泉旅館の問い合わせに応対していた七尾、和島、珠洲、穴水、能登町といった能登半島のリピーターの方々。

高齢者が多く、やり取りにも時間はかかるが、「~やじ」、「~やさけえ」などと言った電話口の石川弁がなんだか温かく、心を和ませていた。

うちのリピーターは今、どうしているのだろうか。

無事なのだろうか。家は倒壊していないのか。避難所で苦労していないだろうか。

などと考えだすうちに、石川県との縁に気付かされた。

自分も苦しいけど、生きるか死ぬかの顧客はもっと苦しい。

できる範囲でやれることをやる。

折しも、所属する団体で被災地への救済物資の募集があった。

七尾に住む野球小僧に現状を聞くと、水のありがたみを痛感したと話す。

スーパー、ドラッグストア、酒屋を回り、指定された形式の水を車に詰めるだけ詰め込み、団体に託してきた。

できることはちっぽけだが、心は被災地とともにありたい。

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