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日本の公鋳貨幣28「戦に左右される撰銭」

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https://note.com/money_of_japan/n/n063772a52e7b

はじめに


領民の都合により、地域ごとに異なる基準で始まった「撰銭」。その撰銭の基準を領主が定めなおす撰銭令は、領民の貨幣使用実態とかけ離れないように、社会慣行をベースにして、細則を追加していくという形をとっていました。つまり、本来なら撰銭令など定めなくても、領民が勝手に行う撰銭で経済は回っていたはずなのです。領主はなぜ、人々の生活慣習に横槍を入れる法律を定めていったのでしょう。今回からは、史料や周辺状況から推測ができる地域で定められた撰銭令の実例をいくつか紹介していきたいと思います。

大内氏の場合

戦国時代にじわじわと勢力を削られていき、毛利元就の登場によって完全に滅亡してしまったため大内氏という戦国大名のことを知らない人も多いと思います。周防国(現在の山口県南部)の守護に任命され、最盛期には九州北部から中国・山陰地方まで支配した名門です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F

大内氏が中心となって治めた周防・長門(現在の山口県北部)というのは、古代には皇朝十二銭の鋳銭司(造幣工場)が置かれた土地です。日本地図を頭に浮かべてもらえばわかりますが、山口県というのは地理的に大陸から近いため最先端の文化や物、貨幣の素材がすぐに輸入できます。さらに、輸入したものや、製造した貨幣を関門海峡から瀬戸内海を抜けるルートを使ってすぐに海運できるわけです。

福岡と山口を分ける関門海峡は、古代から関所として重要視されていた


なので貨幣の製造が終わった中世においても、対岸の博多と合わせて貿易商人が集い貨幣が飛び交う土地でした。

しかし、室町時代に中国を支配した明は、公式な貿易の回数を日明貿易(勘合貿易)で絞っていました。大内氏領内にも明との密貿易業者はいたでしょうが、密貿易では、貿易港で必要とされる十分な貨幣が輸入できていませんでした。明は一応、貿易で銅銭を国外輸出することを禁じていましたしね。(明から日本への銅銭の輸出は、皇帝からの下賜、という名目です)

おまけに、15世紀末になると明での撰銭もより激しくなってきました。明銭はその多くが私鋳銭であったことは、以前解説しました。この頃になると私鋳銭の割合がさらに増大しています。そのため、明国内で明銭はますます嫌われており銭の流通量が激減しました。日本に輸出する銭の量もさらに減少します。

なので、大内氏領内では、貿易港を抱えているにもかかわらず銭の輸入量が不足したのです。そこで大内氏は、15世紀末ごろから銭を琉球(現在の沖縄県にあった国)から輸入しはじめます。

15世紀の琉球は、長年争っていた3つの王国が統一されたころでした。この国を尚氏琉球王国といいます。尚氏は沖縄の観光名所である、首里城を本拠地としていた一族です。琉球王国は、東南アジアと東アジアを結ぶ洋上に浮かぶという地理的な利点を活かし、中継貿易で繁栄していました。その勢いは一時は南九州にまで影響を及ぼし、室町幕府の弱体化を見た薩摩(現在の鹿児島県)の島津氏も保護を求めようとしたほどです。

琉球王国の宗主国である明も一目おいており、10年に1回しか公式な使節を認めていなかった日本の10倍にあたる、1年に1回の朝貢を認めていました。これには、海禁(貿易の統制)を進めていた明側の事情もあります。明の商人は堂々と自国の港で貿易を行うことができませんでした。そこで、琉球の那覇港を実質的な明の貿易窓口として利用していたのです。

琉球には、東アジア全土から人や物が集まりました。が、琉球王国も日本と同じく銭の発行に失敗した国でした。琉球王国発行の銭としては「中山通宝」「大世通宝」「世高通宝」などが知られていますが、いずれも本格的な流通に至らなかったものとされています。琉球はあくまで中継地点であり、この地に集う人々が求めたのは、世界各国から集まる商品や、国際通貨として浸透していた中国製の銭だったわけですから。

中山通宝
大世通宝
世高通宝

当然、琉球も銭不足に陥っていました。

ここに目をつけたのが畿内の商人でした。畿内、すなわち現在の京阪神地方は日本の経済の中心でしたので、精銭、悪銭含め、鎌倉時代から日本が輸入してきたあらゆる銭が集まっていました。畿内における基準となる精銭は、旧習を大事にする土地柄があったのか主に宋銭です。なので、宋銭以外の銭は撰銭の対象となり価値が下落していました。

機内の商人らはこの価値が下落していた悪銭をかき集め、琉球へ輸出。守護や寺院に高くで売れる中国製の陶磁器類を購入しました。畿内も深刻な銭不足に陥っていましたが、それでも琉球へ輸出した方が利益が大きかったのです。

琉球で基準銭として使用されていたのは、宋銭と、当時国際通貨として遠くアフリカにまで渡っていたことが判明している「永楽通宝」でした。

永楽通宝

ということは、琉球では「永楽通宝」以外の銭は、撰銭の対象となります。このころ、九州では「洪武通宝」という明銭は好まれて使用されていました。琉球で撰銭された銭「洪武通宝」を、今度は大内氏が安くで輸入し始めたのです。こうして、機内→琉球→博多という、非常にややこしい銭の交易ルートが誕生しました。

銭を使った経済戦

が、ここで応仁元(1467)年の応仁の乱が勃発します。

大内氏は、西軍の主力として各地を転戦し、八面六臂の大活躍をしました。そのため、大内軍には東軍から様々な工作が行われています。琉球からの貨幣の輸入ルートに対してもです。

東軍の実質的な総大将であった細川勝元は、堺を含む摂津国の守護でした。

細川勝元

勝元は大内軍の強さに手を焼いていました。そこで戦略の一環として、応仁の乱の間摂津全域から琉球への銭の輸出を規制しました。さらに薩摩の島津には、「細川の免状がない船は、琉球にいくのを引き止めて欲しい」旨や、「琉球からくる船に銭が積まれていた場合は、大内氏領内ではなく細川氏領内に回すようにして欲しい」という依頼をします。

風が吹けば桶屋が儲かる理論ではありませんが、このことにより大内氏領内では再び貨幣の不足が起こりました。大内氏当主・大内政弘は、この事態に対応するために撰銭令を発布しています。

政弘の出した撰銭令は以下の通りです。

①田畑にかかる固定資産税である段税を納入する場合は撰銭を行なった上で基準銭(おそらく、全国的に基準銭として通用していた宋銭を指すと思われる)で納めること。ただし、「永楽通宝」「宣徳通宝」に関しては、銭緡に20%まで混ぜてもよい。

宣徳通宝

②利子をつけた銭の貸し借りや売買においては、「永楽通宝」と「宣徳通宝」を銭緡に30%まで混ぜて使用することを認める。ただし「さかひ銭」「洪武通宝」「打平」は使用してはいけない。

というものです。

①に関しては納税の基準です。2割まで悪銭が混ざっていても納税を許すというものですが、ここにはひとつしたたかな策略があります。そのことは、②と合わせて考えるとよくわかると思います。

②は領内での銭利用に関する取り決めですが、納税時よりも悪銭の混入率を上げていることがポイントです。

大内氏は納税される支配者側ですので、様々な支払いのことを考えると少しでも基準銭を多く手に入れる必要があります。①で悪銭の混入率を下げているのは、納税された銭を少しでも多く領外での支出に充てられるようにということでしょう。

対して領内では、基準銭を含め銭不足が進行中ですので、手元に残っている銭は、たとえ悪銭であってもきるだけ貨幣として流通させたい。なので、②では悪銭の割合を上昇させているのです。

混ぜていい銭を「永楽通宝」と「宣徳通宝」に限定していることにも意味があります。これらの銭は大内家の領内では悪銭のなかでも最下層に位置する価値しか持っていませんでしたが、琉球やあるいは関東などへ持ち出せば購買力が保証されていた銭種になります。摂津の商人も琉球への輸出品として永楽を求めていたはずですしね。

つまり、納税で回収した銭緡をそのまま領外での売買に充てることができたわけです。同様に、領内で使用禁止されているうち、銭緡に混ぜてはいけないとされた「さかひ銭」「洪武通宝」「打平」に関してもある程度の理屈はつけることができます。さかひ銭というものがどのような銭を指すのかはよくわかっておりませんが、「洪武通宝」は前述の通り九州では準基準銭として利用できた銭種でしたので、悪銭扱いして銭緡に混ぜられるよりは、1枚=1文の貨幣として流通して欲しいものでした。

「打平」は、銭文すら刻まれていない粗悪な私鋳銭とされています。誰がみてもすぐにわかる悪銭ですので取引のトラブルになりやすい。だから、洪武通宝とは逆にそもそも流通してほしくない、撰銭してほしい銭だったのです。

ちなみに、私鋳銭の使用を禁じる令が出てこないのも撰銭令の特徴です。撰銭令は銭不足の解消を第一義としていたため、むしろ偽金も積極的に使って銭不足を解消しようという大名の方が多かったのです。 


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