大河ドラマから見る日本貨幣史7 『戦国時代の傭兵』

 今週の麒麟がくる、たくさん貨幣が出てきたのですが、noteですでに書いていた日本で鉄砲を量産し始めた根来衆の話やら、袋詰めの砂金を使った売買の話やら、過去の記事で取り上げた話がガンガン映像化されており、記事をつくる側として情報を出しすぎたと悔やんでも悔やみきれません……。

ま、いっか。

ところで、戦国時代百年間を通じて日本から海外への主な輸出品が何か知っていますか?それは「人」です。戦場でさらわれた人間を奴隷として外国へ売りさばいたり、あるいは、劇中に出てきたような百戦錬磨の雑兵を傭兵として派遣したりして外貨を稼いでいました。

そもそも戦国時代は寒冷期に当たり、天候不順によって農作物が安定して栽培できなかったから社会不安が増大したという側面があります。自然環境のことですので、どれだけ善政を行おうが限界があります。室町将軍が熱い気持ちを持っていてもどうしようもないのです。当時の日本人が海外に活路を求めたのは仕方がないことでした。

まずひとつ目の奴隷についてです。戦国時代の諸大名が、戦場での略奪を認めていたというのは有名な話です。特に人さらいは、農村の男性が農閑期に行える貴重な収入源でした。ですが、全国各地で同じようなことが行われていたので戦国時代の奴隷の価格は下がりきっていました。麒麟がくるの舞台である16世紀中期には、奴隷一人20~30文(現在の価値で3000円~4500円)で売られていたようです。命を懸けて行った戦争での略奪で手に入るお金がこれっぽっちでは報われません。

そこで武田軍などは、誘拐した人質を「奴隷市場の相場の2倍~10倍で買い戻さないか」と、家族に持ち掛て収入を安定させることを行っていました。人質の身分が高貴になればなるほど価格は跳ね上がるわけですから、戦果と雑兵の収入が直結する見事なシステムです。

ですがそれでも、戦場で主に手に入る、庶民の身代金には限界があります。そこで、南蛮人が日本に渡来した後に諸大名が行ったのが、奴隷の海外への輸出でした。国内では底値となっている奴隷も海外へもっていけば高く売れると考えたわけです。実際日本人の奴隷は、勤勉でよく働くとして高値で売買されたようです。来航したヨーロッパ人は奴隷を大量に求めていたため、需給が一致しました。が、実は、当時の日本人に求められていたのは、労働力よりは武力だったのです。

話は、鎌倉時代までさかのぼります。

『元寇』と我々が習う文永の役・弘安の役で、鎌倉武士の勇猛さは東アジア全域に知れ渡りました。特に、日本人が用いていた日本刀の切れ味の鋭さは、中国人の間に恐怖の象徴として語り継がれました。元を中国から追い出した明は、日本から大量の日本刀を輸入します。この武具があれば、国家は安泰であると考えられたのです。

室町時代に日本から中国大陸に輸出された刀の本数は数億本とも言われます。もちろん、そんなに国内に日本刀があったわけではありません。輸出用に大量生産したわけです。そのため、室町時代には日本刀は一本400文~500文(約6万円~7万5000円)程度にまで下落しています。麒麟がくるの劇中で身分が低い農民やら商人が刀を腰に差しているのはこれが理由です。当時、刀は安かったのです。

ところが、大量に日本刀を輸入した明は日本刀という武器がそれ単体で革命的な戦力にならないということを知ります。日本刀は、使いこなすには熟練の腕が必要となります。幸いなことに、室町時代からずっと、日本国内では大きな戦乱が続いており日本刀を使いこなせる殺人になれた兵士がたくさんいました。こうして、東アジア全域で、輸入した日本刀を使いこなせる日本人傭兵の需要が高まったのです。

日本が戦国時代に入ったころ、東アジア各国は大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国の侵略により、戦乱が続いていました。日本人傭兵はこれらの戦場に高い料金で派遣されていったのです。

方や、奴隷を売るためにヨーロッパ人と仲良くしながら、ヨーロッパ人を殺すために兵隊を派遣して外貨を稼いでいたというのが戦国時代の貿易の姿です。奴隷貿易は豊臣秀吉の時代に禁止されますが、職にあぶれた兵を外国へ派遣する傭兵業は、実は17世紀初頭の江戸幕府初期まで続いています。平和な世に戦争しか知らない人間は必要ない……と、家康も考えていたのかもしれません。

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