大河ドラマから見る日本貨幣史2 『鉄砲の値段を自分で計算してみよう!』


『麒麟が来る』のドラマ構成が見事な所に、1話ごとに必ず目的が設定されるところがありますよね。主人公・明智光秀がその目的を達成すべくあくせく動く裏側で、別の思惑や歴史の大きな事件が動いており、それが次回の目的設定につながっていくという構成は、シンプルで見やすい構成となっております。

さて、そんな麒麟が来る第一話で光秀に提示された目的が、堺で鉄砲を買ってくるという物でした。なんとなく、鉄砲はめちゃくちゃ高い物というイメージがありますが、実際どのくらいの価格だったのでしょう……と、この手の小話はWeb上に山ほど転がっていますね。何なら私が過去に書いた原稿をまんまパクって掲載している物も見受けられます(笑)

まあ、皆さんが貨幣史に興味を持ってくれるきっかけになっているようなのでそれはいいのですが、本来きちんと記すべき「何故その価格と推定したのか」の計算式を、ばっさりカットして記事にされていることが多く、結果の数字だけが一人歩きしている状況は非常にまずい。

そこで今回は、『過去の物の値段をどのようにして計算するか』ということを、ドラマの時代の鉄砲の値段の算出を使って詳細に紹介したいと思います。

ドラマの第一話は、天文16(1547)年の出来事でしたが、日本に鉄砲が伝来したのはその4年前、天文12(1543)年の事です。現在の鹿児島県種子島に中国船が漂着し、その船に乗っていたポルトガル人から領主の種子島時尭が鉄砲を購入したという話は教科書などで読んだことがある人も多いでしょう。この事件についてもっとも信頼される史料とされるのは『鉄砲記』です。が、この本、事件の60年後に記された物であり、おまけに「鉄砲めちゃくちゃ高かった〜」としか書いていなかったりします。

そのため、火縄銃の値段はいくらだったかを計算した記事がベースにしている史料は、明治時代の新聞記者・西村天囚が地元の伝承を調査しまとめた『南島偉功伝』がほとんどなんですね。「2000両を用意し、この2挺と火薬を買い取った」という記述です。出版は明治32(1899)年。実際の伝来より実に356年も経っておりますから、その信憑性は推して知るべし。ですが、今回はあくまで計算方法を紹介することがメインですのでこの2000両という怪しい数字を元に計算してみたいと思います。

①当時の度量衡を考慮する

さて、歴史上の史料に出てくる数字を扱ううえで最も気をつけるべきことは、度量衡の扱いです。世界各国であらゆる物の単位が国際基準に統一されたのはここ100年位のことであり、単位は国や時代、使われた場所によって大きく変動します。つまり、まず計算の前に史料が書かれた時代の単位の扱われ方を調べることから始めなければなりません。『南島偉功伝』は明治時代の本ですので『両』が何を表すか極めて断定が難しいのですが……。ここでは記述を全面的に信じて、この「両」は戦国時代当時の「両」であると考えましょう。

すると「両」は江戸時代になってから小判を1両、2両と数えるときの両とは意味合いが異なります。戦国時代における両とは、貨幣の計数単位ではなく物の重さを表す単位です。1両がおよそ37.5gだったようです。金や銀を支払いに用いる時に使用された単位のため、江戸時代に金貨の計数単位へと変化したという歴史があります。そして、当時の史料の数々からおよそ、金1両なら銭4000文、銀1両なら銭400文という相場で扱っていたようです。

②基準となる現在の物の値段を決める

当時の貨幣価値を現在の貨幣価値に変換するという作業は、困難を極めます。というのも物の価値は需要と供給のバランスによって変動するからです。今の子どもにとって、テレビゲーム機が1台3万円超で売っているのは当たり前ですが、おじさんが子どもの頃定価1万4800円のファミコンは、おもちゃの値段ではないべらぼうに高いと買ってもらえない物でした。たった35年間で価値観の認識はこれだけ変わるのです。まして、ファミコンを戦国時代に持っていったとしても、動きもしないただの箱として1文の価値もつかないでしょう。

そのため昔の人も今の人も、同じくらいの価値を認めていた物は何かという基準物価を設定する必要があります。よく採用されるのは「庶民の年収」「米価」です。今回は、日本銀行などで採用している米価で計算をしてみようと思います。なぜか日本という国は、米という作物に強いこだわりを持ち続けていました。米そのものが貨幣代わりとして支払いに使えた期間も長かったですし、なにより估価法(権力者が市場の公定価格を定めた法律)を発布する際に必ず米価から設定していたためインフレ率やデフレ率が計算しやすいという利点があります。

ちょうど国立歴史民俗博物館のデータベースを漁っていた所、『教王護国寺文書』の中に、ドラマと同じ天文16(1547)年の米価記録を発見しました。米1石9斗7升8号4勺が銭1貫41文だったそうです。

まず、米1石9斗7升8号4勺を現在の感覚でも分かりやすいように一升瓶とおなじ「升」の単位に揃えます。すると187.84升のお米という事になります。教王護国寺のあった京都の枡は、京枡という秤で量られており、後に信長や秀吉、そして徳川家康が全国統一を果たした際に全国の基準とした枡です。つまり、今我々が使っている升とこの升はあまり変化がないものと考えられます。一升瓶が1.8ℓということは酒飲みであればご存知でしょう一升=1.8ℓ=1.8kg……なのですが、これは水を瓶に詰めた場合のことで、米は水より多少軽いため一升で1.5kgになります。187.84升のお米は281.76kgです。さすが大寺院の教王護国寺、買い物の規模が大きいです。

③現在の米の市中価格を見繕う

こうして、ドラマの劇中の時点で米281.76kgは1貫41文(1041文)で売買されていたことが分かりました。現在、米1kgはよほどのブランド米でも無い限り、1kg=500〜600円程度でしょう。今回は間を取って550円とします。すると米281.76kgを現在のお金で買うなら15万4968円かかる計算になります。15万4968円=1041文となので、戦国時代の1文=148.86円、すなわち1文=150円程度であろうと推測ができるのです。

お気づきの通り、この計算は基準とする商品(今回は米)の現在の価格に大きく引きずられます。米のような主食となる穀物は、価格が乱高下すると庶民の生活に支障が出るため安定する傾向にあります。なのでこういう時に使いやすいわけです。

ここまでやってようやく、種子島に漂着した2挺の火縄銃の値段が計算できます。火縄銃2挺は2000両で買い取られたということでした。そして、当時の両はまだ重さの単位であったため金1両なら銭4000文、銀1両なら銭400文という相場で取引をされています。

種子島時尭が金2000両で2挺の火縄銃を買い取っていた場合は

・ 2000両×4000文×150円=12億円

銀2000両の場合は

・ 2000両×400文×150=1億2000万円

と換算できました。

④史料に描かれた人物の背景を考える

種子島時尭という人物は種子島の領主ではありましたが、島ひとつしか領地がなく、薩摩の大名・島津貴久に仕える人物ですので即断即決現金一括払いで12億円を出せたとは思えません。この2000両は銀で支払われていたと考えた方が自然です。九州は西日本の貨幣経済圏ですしね(いずれ書きますが、西日本と東日本では伝統的に貨幣に用いる金属が異なります)。となると、1挺あたり6000万円程度で売買されたと考える方が自然でしょう。

さて、種子島時尭は手にした2挺の銃のうち1挺を地元の鍛冶職人・八板金兵衛に分解させ複製を命じ、もう一挺を主君で義兄弟の島津貴久へ献上します。種子島での鉄砲分解や製造は順調に進み、島津家の薩摩統一戦で国産第一号の鉄砲として実戦に投入されていくのですが、日本史的に重要なのは島津家に献上されたもう一挺の鉄砲でした。

島津家というのは、鎌倉幕府により薩摩支配のため派遣された由緒正しい血統で、その本来の任務は薩摩にある興福寺の荘園を管理することでした。興福寺は五摂家である近衛家の祈祷寺であり、鎌倉時代から戦国時代にかけて現在の奈良県全域を支配していた強大な寺社勢力です。興福寺のトップは、代々一乗院と大乗院という寺の貫主が交互に務めていました。一乗院の貫主は近衛家の親族が、大乗院の貫主は九条家の親族しか就けません。すなわち興福寺は、日本で天皇に次ぐ高貴な血族が治める寺だったのです。

種子島時尭から鉄砲を受け取った島津貴久は、島津家の中では分家筋に当たる伊作島津家の出身でした。ですが、彼の生家がある伊作(現在の鹿児島県吹上町)には海蔵院という一乗院の末寺が、荘園管理の出先機関として存在していました。貴久やその父忠良は、幼少期この寺で育てられており、つまり一乗院は伊作島津家の主君と言っても差し支えのない存在だったのです。貴久の手に渡った鉄砲の情報ははすぐに海蔵院へももたらされ、一乗院を通じて畿内最大勢力であった興福寺の元へ届いたはずです。

結果、興福寺はすぐに末寺のなかでも特に武力闘争に優れていた紀伊の根来寺に、薩摩から鉄砲を持ち帰るように指示をしています。戦国時代好きの人は根来衆と言えば、雑賀衆と並ぶ鉄砲僧兵集団としてピンと来るでしょう。こうして伝来して間もなく鉄砲は、貴久の手から畿内へ渡り、その扱いの容易さから僧兵の自衛のための秘密兵器として、根来や堺、そして砂鉄の産地で知られる国友で量産態勢に入ったのです。当然、鉄砲の価格は一気に下落しました。

文禄2(1593)年には鉄砲1挺が250文、先ほどの計算式に当てはめると3万7500円で売買された記録が残っております。50年で価格が1600分の1にまで下落していますので、いかに戦国時代に鉄砲が大量に作られたかがわかります。とはいえ、1547年当時は、鉄砲はまだ合戦の道具として用いられておらず、戦闘で使うとしても数十挺といった時代でした。実際、史料上ではようやく国友で国産の鉄砲が2挺完成し、将軍家へ献上された頃です。おそらくまだ鉄砲は輸入品が主流だったはずです。

つまり、同時代の鉄砲は一挺あたりの数千万円のままだったことは推察できます。ドラマ内で松永久秀が百挺の鉄砲の生産をさも大事業のように言っていたのはこうした事情も関連していると思われます。まだ、畿内全部の鉄砲を合わせても1000挺もない。それがドラマで描かれた1947年なのです。

ところで、ドラマのなかで明智光秀は鉄砲の購入代金を懐の中に忍ばして歩いていましたが、あれ、金や銀だとしたら重すぎるし、銭だとしたら少なすぎます。1000両の金属というのは、37.5kgにもなります。仮に現在の価値で1挺1000万円で買えたとしても6.25kgです。銭で支払うとなるともっと重いです。なんたって80万枚も必要ですから……。

戦国時代の軍事物資の購入は貨幣制度の不備もあり、このようにアホみたいな量のお金を持ち歩く必要がありました。だから行軍において輸送部隊というのは重要だったのです。ちなみに、このよう高額の決済の場合は、有力者の証文を紙幣や手形の代わりとして用いるのが通例だったそうです。


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