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日本の公鋳貨幣27「悪銭の利用開始」

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唯一の基準となった1枚=1文の価格設定

第25回第26回はどちらも15世紀の中期から後期にかけての話をしました。明国内の事情により銭の輸入量が減少したことと、幕府の弱体化で地方ごとに経済圏が誕生し、中央政府の統率を離れ地域の実情に応じた貨幣使用が必要となったことを描き来ました。

この2要素が重なったことにより、15世紀後半に「撰銭」が全国的に広まっていったわけですが、再三noteで述べていたとおり、自国で通貨を発行していない日本ではすでに300年以上銭不足によるデフレが続いていました。「撰銭」自体も何度も行われています。

が、全国的に「撰銭」が行われ、悪し様に記録されるようになるのは、15世紀末からなのです。

これは、先程の2要素が重なったことにより従来では取引に用いることなく除かれるだけであった「状態の悪い銭」、あるいは「価値の低い銭」をも、市場に流入させざるを得なくなったからとされています。「銭不足の中でも状態のよい銭を手に入れたい」という思いと、「そうは言っても銭が不足して不便で仕方がない」という思いの閥値に、この時代達してしまったのです。

「状態の悪い銭」や、「明銭のような人気のない銭」は、日本の史料では「悪銭」と記録されています。

現在の日本では「悪」という文字には、「悪物」というイメージがついて回ります。が、元々は超自然的な、常識をはみ出る現象全般を指す言葉です。なので、「超」や「弩」といった漢字と似たような使われ方をしています。例えば、鎌倉幕府倒幕の時に活躍した反幕府で活躍していた武士団を「悪党」と言いましたが、この悪は「人を襲う悪い党」というよりは「鎌倉幕府の制度を超えた(はみ出た)党」という意味合いの方が強いです。また、一休さんのような破戒僧のことを「悪僧」などと記録していますが、一休さん自身は立派な方として当時から人々に愛され一目置かれています。

なので「悪銭」という言葉も、「悪い銭」ではなく「基準からはみ出た銭」くらいの認識でいた方が、「撰銭」という現象について正確に把握できるかと思います。

では銭の「基準」とは何だったのでしょう。室町時代に人々に好まれた銭は、地域ごとに異なっています。つまり具体的に基準となる銭などなかったはず……。

いえ一つだけ、基準があったのです。

それが、1枚=1文の等価交換原則です。

銭に階層が誕生し、人気のない銭でも市場で用いなければならなくなってきたなかで、人々は自分たちが暮らす地域で1文で通じる銭と、その枠組みからはみ出てしまう「悪銭」を分けて使用し始めました。「悪銭」は受け取ってもらえなくなる可能性があるので基本的には受け取りたくないものなのです。ですが、基準銭が潤沢にあるわけではありませんので使わざるを得ない。

だから悪銭を用いた取引にはトラブルがつきまといました。トラブルを避けるべく、あるいはトラブルを記録すべく、官も民も大量に「撰銭」に関する取引記録を残すようになったのです。

できれば使いたくない悪銭の使い方

人々は「悪銭」を受け取ってもらえるよう工夫をはじめました。

まず、行われた手段が銭緡(ぜにさし)のなかに混ぜてしまうという方法です。

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銭を約100枚(地域によって枚数は異なる)紐で纏め、そのまま高額貨幣として利用したものを銭緡と言います。この銭緡は紐を解いていちいち枚数を数えるような使い方をしません。「この長さで100文相当の高額銭」と大体の感覚で使います。だから、この銭緡のなかに何枚か悪銭を混ぜてしまっても、その場で問題となることはありません。上の画像の銭の束の中に10枚悪銭が混ざっていても、絶対に見つけきれないでしょう?中学生がエロ本を買いに行くときに、真面目な参考書の間に挟んだあれと、全く同じ理屈です。

ちなみに明から輸入されてきた最も新しい銭である「永楽通宝」が嫌われていた理由は、直径が一般的な1文銭よりも少し大きいためという説があります。銭緡に永楽通宝を混ぜると、ガタガタになってしまってすぐバレてしまうし使いにくいんですね。

銭緡に悪銭を混ぜて使っていたちうもっとも初期の例は、永享8(1436)年の伊勢の

悪銭15文指


すなわち、「15パーセントまで悪銭を含んだ銭緡」という記録でしょう。

※参照文献:千枝 大志「15~17世期における貨幣・金融の実態と地域性」

 https://www.imes.boj.or.jp/jp/conference/kaheikenkyukai/reji1502.pdf

この「悪銭15文指」は、当時、伊勢でこうした使い方が民間で行われ定着していたという記録です。もちろん、伊勢だけのルールであり、他所の地域へこの銭緡を持ち出し使用すれば、トラブルが生じます。

永正8(1511)年、備前国宇佐神宮に対して領主である大内義興が「貸した金を利子付きで返せ」と求めている記録が残っています。

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↑龍福寺の大内義興像

基準銭である「清(銭)」立てで銭を貸し付けているのですが、実際に使用された銭緡には永楽通宝が20%含まれていたそうです。領主自らがこういう使い方をしていたということは、大内氏の領内ルールでは20%まで悪銭の含まれた銭緡は、基準銭だったのでしょう。これが、伊勢の悪銭15%銭緡だと基準より高額で、現場は混乱しますし、21%だと支払額に達していないということになります。

15世紀後半になると、大内義興のように、為政者が悪銭を銭緡に混ぜる方法についての規制を行った記録が増えます。「撰銭」行為にたいして為政者から制限をつける法令のことを歴史学の世界では「撰銭令」と呼称します。おそらく、銭緡によるトラブルが頻発したことに対する対応策です。伊勢や大内家の領内では、銭緡の中に紛れ込んだ悪銭に関しては使用を認めることで、銭不足に対応しようとしていました。が、この使い方では、悪銭はある程度お金がまとまったときに初めて価値を獲得するため、日常の支払いに用いることができません。

そこでもう一つ、悪銭そのものを減価銭とて貨幣制度のなかに組み込んでしまうという「撰銭令」がありました。

長享2(1488)年、京の賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)の荘園である能登国土田荘が納めた年貢の納入記録によると、悪銭1,000文を「本銭(基準銭)」511文と換算しています。

また、明応2(1493)年には、肥後国を本領とする守護・相良氏が、「字大鳥」という悪銭を基準銭の60%、「黒銭」という悪銭を基準銭の50%にして使用するようにという法を自領内で発布しています。

基準銭である1文銭を100円玉と見立てた時、悪銭を50円玉や10円玉に見立てて使おうとしたのです。

ちなみに「字大鳥」や「黒銭」が、どのような種類の悪銭を指すのかは判明しておりません。それだけ地方ごと、荘園ごとに「悪銭」の種類が細分化されているからです。悪銭を指す言葉もたくさんあります。「コロコロ」「打平」「島銭」「さかひ銭」etc……。

ともかく、この時代の悪銭は除く対象ではなく、なんとかして使うものへと進化しました。

紙片を銭の代わりにする取引

「撰銭令」は、価値の低い銭を排除するために行われたのではなく、価値の低い銭でも使用するために出された法令です。が、だからといって根本的な銭不足の解決には至りません。

銭不足を解消する唯一の手段は、銭をつくる、というその一手しかありません。不足分を補えるだけの銭を国内で量産するには、15世紀末の日本はあまりにまとまりがありませんでした。なんと言ったって、トップである室町幕府にやる気がありません。

そこで人々が行い始めたのが、平安時代に貴族や商人が行っていた、証券・証書類の紙幣化の拡大です。

かつては朝廷の関係者や寺社が発給していた証券・証書類ですが、このころになると主に畿内を拠点とする物流商人たちが発行しました。これらの物流業者が発行し手形化した紙幣を「割符(さいふ)」と言います。

券面は2種類あり、

①現在の為替手形と同じく「この割符を支払人Aに提示すればここに書かれた銭と交換してくれます」と書かれたものと、

②約束手形のように「この割符を発行者Bに提示すればここに書かれた銭と交換します」と書かれたもの

があります。どちらにも譲渡性があり、主に輸送業者が遠隔地取引で使っていました。

もうとつ、この時代に勢力を増した禅宗寺系金融業者が関連する「祠堂銭預状」も紙幣として用いられました。

祠堂銭とは、禅宗寺に供養料や修理料の名目で信者が寄進した財貨のことです。禅宗寺は、これら祠堂銭に荘園からの年貢を足したものを人々に貸付て利益をあげていました。

この祠堂銭を預かったことを証明する受領証が祠堂銭預状です。

祠堂銭預状に記されている額面は、5貫文(5000文)、または10貫文(10000文)と高額で固定されていることから、使用していたのは商人に限られていたと考えられています。実際、商家の跡地と見られる遺跡などから発掘される銭緡は、基本的に5貫文単位で紐で纏めています。こうした現金換算の慣習があったのでしょう。

寺社から貸付を受けた商人は受領証として祠堂銭預状を制作し寺社に渡します。この受領証には、「求めに応じて、いつでもお借りしたお金を銭でお渡しします」という一筆が書かれています。寺社はこの受領証を紙幣のように別の相手に対しての売買に当て、信用取引を成立させていました。当然、祠堂銭預状にも譲渡性があります。

こうした手形類を用いた売買は、銭の輸送コストを削減できるうえ、銭不足に対する抵抗手段にもなります。さらにいうならば、撰銭を行う手間を省くことにもつながりました。高額売買のなかで用いた銭緡の中に、悪銭がこっそり紛れていようものなら、損益が出てしまいます。特に広域で活躍する輸送業者などは、地域ごとで異なる撰銭令を把握しておかなければ、とんでもない額の損益に繋がりかねません。ですが、これらの手形を用いておけば、兌換(銭との交換)しないかぎり、撰銭による損益は絶対に出ないのです。

実際、この時代の領主が発行する納税を求める行政書類には、銭の現物ではなく手形での納税を求めるものがあります。領外との売買を見越したうえのことでしょう。場合によっては銭での納税よりも現物での納税を求めるといった実例もあります。それだけ撰銭にかかるコストが膨大だったということでしょう。

実は、これ21世紀現在、世界で同時多発的に起きている現象と同じです。日本では遅々として進んでいないので実感がわかないかもしれませんが、世界的には貨幣の電子化がものすごい速度で進んでいます。この理由は、贋金があまりにも多いからです。例えば、お隣の中国では紙幣のおよそ30%が贋金と言われています。偽造技術は年々進歩しており、一般の商店では貨幣での支払いを拒否する店も出てきてしまっている始末です。そこで偽造が困難な電子マネーならば、安心して取引が行えます。貨幣の電子化の速度は、偽造貨幣(信用できない価値の低い貨幣)の量と相関関係があるのです。

明治時代まで残ったツケ取引文化の始まり

とはいえ、5貫文、10貫文は当時の庶民一人の年収よりも高額にあたると考えられています。そんな紙幣を使えるのは商人や寺社、領主などの高額所得者層のみです。なので、庶民の貨幣不足の解消手段とはなりえません。そこで、一般庶民が行っていたのが「掛取引」。いわゆるツケ払いです。

「今は支払うだけの銭が手元にない。でも銭が用意できたら必ず払うからつけといて」

ということです。「なんと原初的な!」と思うかもしれませんが、スマホの分割払いにしろ、 Paypalの一部決済にいしろ、代引きにしろ。口約束でのツケ払いは現在まで残る立派な売買の手段であり貨幣の一種です。日本では平安時代ごろから掛取引は行われていましたが、15世紀後半から16世紀前半にかけてその量と金額が急増したことが、記録上に現れる回数から見て取れます。

もちろん電子化されていない時代ですので、掛取引を行うにはいくつかの条件があります。

①小額であること……5文や10文ならいざしらず、100文や1000文となると拒否されていたことがわかっています。仕入れなどもあるので、これは当然でしょう。1000円までなら「貸しといて」ですみますが、1万円を超えると「ちょっと……」ということです。

②居住地が近隣であること……ツケ取引は、口約束と一筆だけで成立する、ある意味究極の信用取引です。クレジット審査のようなものもありません。なので、店主が相手と顔見知りであり、支払いが滞ったときには、最悪回収に向かうことができるという前提が必要となります。となると、貸す相手の居住地は近隣、遠くに住んでいるとしても少なくとも月に一回は店を訪れてくれるような相手との間でしか成立しませんでした。

なお、②に関しては例外も生じます。商人同士の売買で、間に保証人となる第三者が入ったときは掛取引が行われていたようです。これも、当然といえば当然ですね。

なお、室町時代に頻発した徳政令の場合、多くの商人が幕府に泣きついたのは、ツケ払い債権だけは対象外にしてくれというものでした。金融業を営むような大寺院や大店は資本も潤沢ですが、日常的に掛取引を行う程度の店は、徳政一揆を起こす側の一揆衆とさして代わりのない生活レベルです。そのような暮らしなのにツケをチャラにされてしまうと、生活がたち行かなくなってしまったのでしょうね。

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