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見栄っ張り症候群

今日もまた、見栄を張ってしまった。

私はつい自分をよく見せようとしてしまう癖がある(と最近気付いた)。

こうやってnoteにも綴っているがかなり見られ方を気にしている部分がある。

多分ここで書くことはこれまで書いたことと矛盾することが多いだろう。

昨日書き綴ったnoteは割とありのままで書いたのだが実はあれを書いて出すまでに1週間ほど温めていた。

こんな意見、認められるかな……私やばいやつって思われるかな……

そんなことを思いながらどうにか書き終えて出したものだ。(下の記事です。)


今日はまた何を見栄張ったかというとTOEICの点数。

お恥ずかしいので詳細は記載しませんが実際の点数より5点ほど上げて話すというしょうもない見栄を張った。

本当にしょうもない笑

なぜこんなに見栄を張ってしまうのか、私には二つ理由があると思う。

①これまで平均を生きてきた

私の小中高は(あくまで主観だが)「良い子」の道を辿り、それなりに平均よりちょい上くらいを歩いてきた。

これはたまたまそういう環境にいたというだけなのだが、私にはなぜか可能性があると思っていた。

恥ずかしいことにまだ懲りずに今でも己の可能性を信じている。

そこそこを生きてきた私はいきなり逸脱することもできず、過去に縋って生きることしかできない。

こんなリアルを捉えながら夢を見ることはやめられない地獄。

こんな風に普通の道を歩むことができて、そうではない道に踏み込み始めたところなのでまだ吹っ切れないのだ。

最近出会う人はみんな自分のやりたいことが明確で、自分の良さを存分に発揮している人が多く刺激になる分比べてしまう。

LIGHT HOUSEでの若林さんが「誰か私の良さを教えてほしい」というようなことを言っていたがよく分かる。

まじで自分のことわからんから誰か教えてほしい。

②親や周りから褒められる言葉に縛られている

これは何も環境のせいにするのではなく、私が褒められることが好きでそうした言葉を(よく言えば)素直に受け止めてこれが自分だ、と思ってきたということだ。

頭がいいね、しっかりしてるね

そうした言葉が「私」を作り、それに見合う人でいようとしてきた。

だからそれに合わない自分が嫌なのだ。

浪人して落ちたにも関わらずまだ抗うのか、と言いたくなるほどだがなかなか認められない自分がいる。

これまでの印象と違う自分を受け入れることってかなり難しい。

こんな理由で私はつい見栄を張ってしまうのだろう。

見栄を張って「しまう」と表現しているところにも見栄が見え隠れしている。

見栄だけに。

………ははっ

まあこんなしょうもないネタは置いておいて、とにかく人からの視線を脱却して素直に自分だけを見て生きることって理由が分かっていてもできないのだ。

だから、自分のやりたいことを見つけてそこに向かって猪突猛進できる人が羨ましい。

また、分からないことを分からない、と言えるのも羨ましい。

最近話す人はみな頭がよく私の無知をよく感じる。

これまでの不勉強を恥じるくらいなら今からできることを少しずつやっていこうという精神は持ち合わせているがこのブランクはかなり大きく、へこたれてしまうこともある。

もう少し、自分で自分につけているタグを外して生きていきたいものだ。

こういった悩みを乗り越えた人の話があれば是非共有していただきたい。コメントお待ちしてますっ

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