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男女の友情は場合によっては脆いが、拾う神もあり。

南米出身の女性(50代)と知り合った。

それだけならば、ここには『母を訪ねて三千里』のマルコのお母さんとは反対に、あちらから働きに来て長く在住している人はたくさんいるので、特にめずらしくはない。
(『母をたずねて三千里』の舞台はジェノヴァとアルゼンチンで、元のストーリーはエドモンド・デ・アミーチス(Edomondo De Amicis)作の『クオーレ物語(Cuore)』の話の中の1話、「アペンニーニ山脈からアンデス山脈まで(Dagli Appennini alle Ande)」)

イタリア語をよく話すので、彼女もそういう状況で長く在住している人なのかと思い込んでいた。

が、実は、そうではなくて、長期休暇で滞在している人だった。イタリア訪問は4回目だと言う。
「どのぐらい、イタリアに住んでいるの?」というわたしの質問から、バカンスでの一時的な滞在だという返答に結び付いたのだ。

「イタリア語をよく知っていて、普通に話しているから、てっきりここに住んでいるのかと思った!」と言ったら、20代の頃に英語を勉強しようと思って行った語学学校が開いていなくて、どうしようかと思っていたら、その向かいにイタリア語学校があったので、イタリア語でも勉強してみる?と門を叩いたのが事の始まりだったとのこと。
こちらで知り合う南米のスペイン語圏出身の人にしては、「イタリア語を勉強したから、イタリアに関心を持った」という人はめずらしいタイプだ。
多いのは、やはり、「仕事をしにイタリアに来たから、イタリア語を学んだ」というタイプの人。

ケースは異なるものの、ひょんなきっかけでイタリア語を勉強し始めて、イタリア語が好きになったという経緯がわたしと似ている。

そんな彼女には20年来のイタリア人男性の友人(60代)がいた。

「いた」と過去形になるのには理由があった。

今回のイタリアバカンスの話をそのイタリア人の友人に話したら、「僕のところに泊まればいいよ!」と言ったそうだ。
「いいのならお言葉に甘えたいけれど、わたしの滞在は2、3日では済まないのよ。それでも大丈夫?」と確認する彼女。
大丈夫だということで、トスカーナでは彼の所に泊めてもらう予定で、他の町も訪問・滞在する計画を立てていた。

ところが、その友人に、近頃、彼女ができたそうだ。
彼は、その新しい彼女にも、「この南米人の友人はとてもいい人だからぜひ会わせたい!」と打診したとのことだが、「会いたくもないし、泊めて欲しくもない!」と、彼の提案は撥ね付けられたと……
そのため、「こういうことで、本当に済まないけれど、君を泊めることができなくなっちゃった」と、旅行中に連絡が入ったから、さて、どうする?
泊めてもらう予定にしていた日数分の宿泊費を費やすのは厳しいから、滞在を切り上げるかどうか……

泊めてくれると約束していたのに、それが反故にされたからというわけではなく、やはり、新しい彼女の反対があるから彼とは友人同士ではいられない、と判断したようだ。

南米人の彼女は、「わたしたちは友だちで、男女の関係であったことは1度もなくて、20年という長い間の友情の積み重ねがあるのに、それが一瞬でくずれてしまうのが本当に馬鹿馬鹿しくて、悔しい……」と言った。

たしかに、わたしが南米人の彼女の立場であったとしても、長い間築いていた友情を失うのは残念で悔しいと感じるだろう。

一方、その新しい彼女の立場だったらどうだろうか。
その場合は、彼の長年の女性の友人のタイプや言動にもよるだろう。とりあえず、会って話してみて、どんな人か知ろうとはすると思う。
パートナーの友人が、自分よりも先に知り合っていた女性だからという理由だけで、やみくもに引き離すことははしないかと。

そして、それは反対に、自分に異性の友人がいても、そこはつまらない干渉や嫉妬はしないで欲しいということにも繋がる。


捨てる神あれば拾う神あり

宿泊場所をどうしようか、滞在を短くしなければいけないか……と考えていた彼女には、また別の友人がいて、その友人が「所有しているアパルタメント(セカンドハウス)に泊まればいいよ!」と言ってくれたそうだ。 

そして、そのアパルタメントに滞在したことがきっかけで、彼女はリグーリアを好きになった。

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