相対性理論『辰巳探偵』を8年後に深読みする話

2013年の楽曲にも拘らず、すごく"いまの曲"だと感じたのだけれど、「辰巳探偵 解釈」のようなワードで検索してもそうした感想が見当たらなかったので書き留めておく。

『辰巳探偵』の歌詞はシンプルに言えば、探偵と見立てた「君=あなた」に対して、その心を奪おうとする「わたし」を怪盗と見立てた内容だ。きっと相手の姓名のどちらかがタツミなのだろう。「あなた」はとても疲れて荒れていて、「わたし」はアプローチをしようとするがタイミングが合わない。「あなた」は「わたし」の想いに気づいてくれるだろうか。そういうことを歌っている。

そうした内容を相対性理論らしい言葉遊びで修飾したもの、というのがおそらく真っ当な解釈なのだけれど、僕はさっき初めてこの曲を聴いてもう少し深読みしてしまった。

以下、歌詞の一部を引用しつつ解釈を書いていく。

生まれたときから優等生で
(中略)
かなり天才だ 果ては日大駒大だ
かなり天才だ 夢はいっぱいあって


「あなた」は優等生だ。そのうえ天才でもあるらしく、夢はいっぱいある。にも関わらず「果ては日大駒大」なのだという。

この「果ては~」言い回しはかつて秀才の子供に言われた「すえは博士か大臣か」のもじりだろう。もし大学なら「果ては東大京大」とするのが素直な置換だが、偏差値50前後の日大駒大になっている。いくつかの感想を読むと相対性理論のファンはここを「相対性理論らしい笑いどころ」と捉えていて、たしかに『テレ東』のような感覚が相対性理論にはある。誰でも知っているけれど一流ではないものに対する可愛がりとでもいうべき感覚だ。

ただ、僕にはこの部分はこの歌詞の現代的なところ、つまり「格差の現実と学校教育の矛盾」の表現に思われた。

この〈生まれたときから優等生〉という部分を見ると、きっといま多くの人は2020年の曲『うっせえわ』を想起するだろう。あちらは〈ちっちゃな頃から優等生〉で、これはチェッカーズの1983年の曲『ギザギザハートの子守唄』の冒頭〈ちっちゃな頃から悪ガキで〉と対比させた歌詞だ。70年代後半から80年代前半は中学・高校が荒れていた時期として知られている。

どちらシンプルには反抗の歌と解釈されるが、僕には説明の歌に見える。どちらも「分かってくれないだろうが」という意味の歌詞が挿入されていて、これは逆説的に「本当なら分かってほしい」意図を示すからだ。2020年に『うっせぇわ』が"説明"した〈ちっちゃな頃から優等生〉な人間像を2013年の『辰巳探偵』に代入(というのは少し無理があるので"深読み"なのだが)すると、この歌詞の解像度が少し上がる。

『辰巳探偵』の歌詞に戻る。「あなた」は現代における生存戦略として生まれた時から優等生であることが定められている。同様に学歴も、届く夢の範囲も、自ずと決まっている。にも関わらず社会や学校は子供に対して夢を持てと無責任にも人間の無制限な可塑性を断言するが、例えば〈ナイフの様な思考回路〉を持つような本当に特別な人間でなければ発展的にレールから抜け出す事はできない(ドロップアウトは気を抜けばすぐにしてしまうのに)。そんな矛盾と絶え間ない試験に生まれたときから曝され続けた「あなた」は既に限界で、攻撃的になっているし、それが良くない変化だと自覚してもいる。

ねえもしわたしがあなたの敵でも責めないで


この引用部の歌詞は探偵に見立てた「あなた」に対して「わたし」を探偵の敵である怪盗に見立てていることを意味する。一方で不可抗力的に分断された「あなた」と「わたし」の悲しさも描いているように見える。

「あなた」は生まれたときから与えられた属性に苦しんでいる。そして、その属性は当然「わたし」にも付与されている(そして同様に限界だ)。生まれたときからおおよそ付与される「性別」や「社会階層」など。またそれらに伴って後天的に発生する「思想」などの諸々の属性や立場によって、当然「わたし」と「あなた」は対立する。

現代の恋愛には恋愛工学が大きく存在感を示していて、マッチングアプリの独自調査によれば、既に交際の切っ掛けの1位はマッチングアプリなのだという。マッチングアプリにおいて、人間は属性に変換される。また、SNSでは毎日、何かの属性に対する攻撃や属性同士の争いが繰り広げられている。それらを目にするたび、人間は自身の身の置所としての属性を定めてしまう。たとえば「猫好き」とか「平和主義」だってそうだ。

ウマシカと書いてばかなあなたを
ねえもしわたしが好きだと言っても笑わないで


「わたし」は「あなた」のことを「ばか」とネガティブにすら表現する。これは素直に読めば「わたし」の気持ちに気付けないでいる「あなた」に対してやきもきしている感情の表れだ。しかし同時に、仮に積極的な価値を「あなた」に見出だせなくても「わたし」は「あなた」が好きだという表明でもあるように見える。

属性に変換された人間の恋愛において、好きになる相手はなにかの強みが無くてはいけない。相手の収入、容姿、権力などの諸要素のうちの少なくともどれかが互いにとって十分以上でなければ、その"恋愛"には説得力がない。また、もし対立する属性があったとしたらそれを見なかったことにするか可能ならば転向を迫るだろう。この歌詞はそれを乗り越えようとする。

まとめ

つまり、僕は次のような内容の曲なのだと解釈した。

現代においては、「わたし」と「あなた」は生まれたときから苦しみを宿命付けられている。そして様々な属性の対立はかつてなく顕在化させられて、「わたし」は殆ど必ず「あなたの敵」になってしまう。「わたし」の「あなた」に対する恋愛感情は現代的には全く合理的でないし、信用できないものだが、それを対立の事実ごと受け入れて、笑わないでほしい。

これは2013年の曲なので、こうした意図で書かれた歌詞ではないと思う。ただ、別にこういう意味で聴いたって良いだろうし、こうしたノスタルジックな解釈は僕を含めた一部の人の慰めにはなるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?