見出し画像

月曜日の図書館10 ねことおじさん、やさしさについて

Lちゃんには、毎朝あいさつを交わすおじさんがいたそうだ。図書館のとなりには大きな公園があって、おじさんはその中で寝泊まりしている。昔、動物園があった名残で、今は門だけが立っているエリアが、おじさんの縄張りだ。自転車に乗ったLちゃんが門に差しかかると、おじさんはいつも気づいて、手をふってくれていたらしい。
あるとき、自転車がパンクしてしまい、しばらく電車で通勤せざるをえなくなった。雨の日が続いたこともあって、そのルートに戻ったのは1ヶ月後のことだった。
その日、おじさんはいつもの場所にいた。うれしくなったLちゃんは、大きく手をふった。
おじさんはけげんな顔をしただけだった。Lちゃんのことは、すっかり忘れてしまったようだった。

館内で異臭がする、という苦情が寄せられることは少なくないが、その日は明らかにいつもと違った。もっと切羽つまった、命に関わるにおい。館内を見回ると、地下のベンチに座ったおじさんが、足から血を流している。何日前のものか分からない汚れた包帯がぐるぐる巻きつけてある。床には血の跡がぺっとりついていた。
救急車を呼びましょうか。係長がそう聞いても、いやーいいですいいです、と笑いながら答える。そばに寄ると異臭はいっそうきつくなり、目に涙がたまってくる。けがをしているなら、早く処置した方がいいですよ。立てないようでしたら、手を貸しましょうか。おじさんのいいですいいですと、わたしたちの救急車呼びましょうかの応酬が5セットくらいくり返された後、観念したおじさんは自力で立ち上がり、足と包帯を引きずりながら、図書館の外に出ていった。やっぱり笑っていた。
のっぴきならない理由があって、病院には行けないのだ。知っていて、追い出したのだ。
そばのベンチでは、学生らしき男の子が表情のない顔で菓子パンを食べていた。

ワンピースを着ていたとき、トイレの後ですそをたくしこんでしまい、パンツが丸見えになっていたことがあった。エレベーターに乗って鏡を見て愕然とするまで、10分くらいあっただろうか。その間、わたしは何も知らずに事務室内をうろうろしていたが、誰一人としてそのことを指摘する人はいなかった。
やさしさの押し売りをしないところが図書館の良さではあるが、ときどき、それが寂しい。

K氏の提案でここ数年、玄関にて路上脱出ガイドブックを配布している。発行元のNPOの人が定期的に補充してくれるが、それが追いつかないほど持って行かれる。
学生時代に熱心に活動していたK氏は、炊き出しによくくるおばあちゃんから、あんたは酒も女もやらないし、こんなことばっかやって本当につまんねえ男だなあと言われたそうだ。

図書館の周辺には野良猫が何匹か住んでいる。もしかしたら世話をしている人がいるのかもしれない。わたしと目が合うと、どの猫もたちどころに逃げる。
いつかS田さんに(珍しくわたしの方から)いっしょに帰りましょうと声をかけたとき、目の前をちょうど猫が通りかかって、ごめん、わたしあの子と遊んでから帰る、と断られてしまった。
ライブラリーキャットを飼いたいと思う職員は多いが、現実には難しい。代わりにわたしが猫のキャラクターを作ったところ、「全然かわいくない」「猫への愛が感じられない」「ハレンチである」とさんざんな言われようであった。目の下にクマがあり、下半身を禁帯出シール(貸出できない辞典などに貼るシール)で隠しているのだ。

ビデオブースは、いつも公園組のおじさんたちで埋まっていたが、酷使されすぎてびよんびよんに伸びたビデオを一斉処分して、DVDに刷新した途端、誰も来なくなってしまった。新しいことを覚え直すのは、想像以上にハードルの高いことなのだった。
来なくなってほっとしなかった、と言えばうそになる。それでもわたしのことを小雪に似ている(!)と言ったおじさんや、親指のない手でヘッドホンを受け取りにきていたおじさん、全身にレジ袋を結びつけていたおじさんが、どこに行ったのか、今も生きているのか、ときどき思い出すのだった。

ゼンリンの住宅地図は著作権法上、見開きの半分までしかコピーできない問題、定期的にこじれるのだが、その日はおじさん2人がかりで怒鳴りかかられて相当まいってしまった。そんなこと今まで言われたことがない。お前が勝手に言ってるだけだろう。証拠を示せ。金払ってるのにおかしいだろ。云々。高そうなスーツと、かっちりセットされた髪の毛、ぎらぎらした目。
トラブルが起こったときは、必ず複数で対応しましょう。ミーティングのときには毎回お決まりのように確認し合うが、実際に助けがきたことは、一度もない。ひとしきり怒られた後に事務室に戻ってから、大変だったね、災難だったね、となぐさめてくれる。複数で。

わたしは、パンツ見えてますよ、と本人に言える人になろう。

帰り道、公園をとぼとぼ歩いていると、暗がりから猫が飛び出してきた。人間がいると気づかなかったのか、わたしの方をびっくりしたように一瞥して、たちまち元の暗がりに姿を消した。
足には汚れた包帯が巻きつけられていたように見えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?