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月曜日の図書館38 受け入れて

ブックトラックいっぱいに本を乗せてT野さんがやってきたので、やむをえずパソコン席を明けわたす。小学生でさえひとり一台パソコンを与えられようという時代にあって、いまだに我が事務室には職員数の半分しかパソコンがない。本の受け入れ作業はどんな仕事より優先されるので、今日のところはわたしもおとなしく引き下がる。T野さんはにこにこしながら、押し出しでT野山の勝ちー、と言った。

ふだんはもっと熾烈な戦いをくりひろげている。

クリック、という言葉がどんな動作を指すのか、わたしはいつから知っているのだろう。マウスの左側を、わざわざ人差し指を立ててえいっと押すおじさんを見ながら、ふと考える。たいていは変に強く押しすぎてカーソルがずれて、カーソルっていうのは矢印のことなんですけど、それがずれたので、思ってたのと違う画面が出てきたんです。うまくカーソルを合わせると、矢印が手のマークに変わるので、その状態でここを押す、それがクリックです。
無料でインターネットが使えるパソコンを利用しにくるお客さんは、フィルタリング機能をかいくぐってお姉さんの水着画像にたどりつくほど熟練した人か、いままで一度もパソコンを触ったことのない人かのどちらかに分かれる。後者のお客さんの相手をしていると、そもそもマウスとは?ローマ字入力とは?わたしは司書ではなくてパソコン教室のアルバイトなのでは?と自分のアイデンティティが揺らいでくる。情報を自力で得られるようになってほしくて使い方を説明しているのに、キーをゆっくり押しすぎてあっっっっっっっっっっっkとなっているおじさんの小さい背中を見るたび、不必要に千尋の谷に突き落としている気分になる。

ステイホーム中におうちの掃除をした人が多いのか、連日山のように寄贈の本がやってくる。これって受け入れした?早く受け入れてね。今日はもうこれ以上受け入れられない。T野さんが電話に出たすきをついて、わたしはパソコンを操作し、目当ての文書を印刷する。傍らには本のレシートと、メモが置きっぱなしになっている。同じようにして乗っ取られた誰かが、席が空くまでと他の仕事をやっているうちに、本当にやりたかった仕事を忘れ果ててしまった、その残骸である。S村さんのかな?と電話を終えたT野さんに見せると、それにしては字がきれいすぎる、と言った。

たまっていく残骸は、筆跡でわかるものは持ち主に返され、わからないものはそっと処分される。置き忘れた人は、自分がそのようなメモをこしらえたことさえ思い出さない。不思議なことに、再度席に戻ってきても、まるで見えていないかのように、メモの存在を認識することができなくなっている。こうして再度調べる→電話で席を外している間に乗っ取られる→調べたことを忘れる→再度調べる、をくりかえす。ビジネス書にダメな職場の典型例として取り上げられる状態そのものである。

ビジネス書の主人公なら、この状況をどう改善するのか。マーフィーの法則的な何かが効きそうな気がするが、それを検証している間にまた電話がかかってきて検証していたこと自体を忘れそうだ。

わたしが子どものころのパソコン教育は、とても牧歌的だった気がする。画面上で何かを押したりずらしたり打ちこんだりすれば合格だった。自分が知りたいことにたどり着くためにその技術を使うなんて思いつきもしなかった。みんなが情報弱者だった。知りたいことも特になかった。クリックがわからない子は何度でも根気強く教えられた。先生がその子につきっきりの間、ひまな児童はおしゃべりしていた。わたしはとなりの子に、お前の字はあやちゃんに似てる、まねしてるのか、と聞かれ、『人間失格』の主人公並みに背筋がぞわあっとした。

わいふぁいに接続できないんだけど。画面を見ると、すでに接続されているのに何度も実行しつづけたせいで、ウィンドウがくらくらするほど立ち上がっている。開かれていても、何も呼びこまない、無数の窓。もうつながってますよ、といくら言っても、おじさんは信じない。

小学校よりもパソコンの少ない我が事務室だが、特定の誰かがいつも使えない、ということはない。その逆もない。みんながいつも、そこそこパソコン難民で、そこそこ仕事を忘れ、そこそこそんな状況を「受け入れ」ている。結果、抜きん出て仕事ができる人がいない代わりに、その逆もない。きっとマーフィー的な何かが働いているのだと思う。

わたしの字はあやちゃんと似ていて、とてもきれいで誠実そうなので、置き忘れたメモはたいてい手元に戻ってくる。


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