自然と命と #書もつ
読めば読むほど、この筆者のことが分からなくなっていくような気がした。
ふつう、エッセイのような文章は読み進めていくと、その筆者の輪郭や行動、考え方、何なら歩き方まで分かってしまうようなことがあるけれど、この作品の筆者は、書けば書くほど本人の影が薄れてしまうようだ。
それは筆者があえてそうしているのではない。周囲の環境があまりにもドラマチックで、信じられないような、それでいて非常に伝統的な、ともすればファンタジーの世界にいるように感じられるからかも知れない。
旅をする木
星野道夫
アラスカ・・荒涼とした大地や、厳しすぎる冬の寒さをイメージしては、人が住んでいることに驚きを覚えてしまう。そんな土地で暮らしていた筆者の言葉は、僕の想像をはるかに超えていた。
筆者のことは全く存じ上げなかったけれど、この作品はたびたび耳にしてきたタイトルだった。旅をする木、とは果たしてなんだろうか。
それは、木の生えないアラスカの大地に流れ着いた流木のことであった。流木は、鳥や動物たちの拠り所になり、人間のための薪となって、その姿を消すことになる。(流木になるまでの記述ももちろんある)
しかし、筆者はなおも木のことを想う。燃やされて煙になっても、そこに木の存在があるという。どこまでも自然の強さを、その意味を考えているのだ。
季節があること、それに応じた景色があることは、日本に住んでいても知ることができる。暮らしている地域によっては、季節ごとに苦労を強いられることもあるだろう。
筆者はアラスカの自然に惹かれ、暮らしていた。単なる海外暮らしとも違う、憧れよりも心配が先に立つような場所で、見たもの会った人、感じたことを書いていた。中でも季節は、あまりにも鮮やかだった。
写真や文章で表現しても、それは実際に自分の目で見るものとは、全く価値が違うだろうと思う。筆者は毎日のように、自然を感じていたはずだ。感じるどころか、離れられないのだから。羨ましいが、自分には出来ないとも思ってしまう。
自然の中で生きていること、それは死が特別ではなく、動物だけでなく人間にも当然に起こること、言葉にはならないまでも、読んでいるうちに染み込んでくる感覚があった。
死んだら残念ではあるけれど、それが新しい何かへのきっかけであったり、自然の中ではまさに普通のことである、という独特の感覚である。
あまり明るくないので詳しくは書けないけれど、アラスカに住む人たちにはきっと自然の中に言葉があり、神がいるのだろう。寒い地域ということでは北海道のアイヌの人たちを思ったが、彼らの言葉も自然に近く、また自然の中にあった神(カムイ)を尊敬した暮らしをしていた。
筆者が友人と、氷河の上で星空を眺めているときの会話が印象的だった。
旅先で心が揺さぶられるような景色を観たことがある人も多いだろう。筆者は、写真や言葉で伝えると言った。
僕も同じように思ったけれど、本当にできるのだろうか・・考えていたら、友人の言葉が続いた。
自然という言葉が、山や森、天候などを含めた環境を指すだけでなく、人間の性格や行動にも使われていることを考えるならば、確かに大切な視点だと痛感した。
自然が語りかけてくる、自然が教えてくれる、どれも受け取り手の気持ちがなければ、単なる景色として消費するだけになってしまうかもしれない。
満天の星空、僕もかつて母の故郷の島で見たことがあるが、綺麗でもあり、なんだか怖くもなった。こんなにも“見えていないもの”があったのかと、何か残念な気持ちにもなった。
アラスカの自然、生きる人々の横顔を思うたびに、この筆者の好奇心に頭が下がる。命の危険、なんて言葉がアラスカには似合わないだろう。
もともと、自然に生かされているものだから。
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