忘れても忘れない #創作大賞感想
幼い頃、我が家では両親から、カップラーメンは体に良くない、というふうに伝えられていた。自宅でもほとんど食べたことがなかったし、祖父母の家でも、おそらく食べたことがなかった。
今でこそ、必要に迫られれば食べるけれど、やっぱり優先順位としてはかなり後ろの方かもしれない。美味しいのもわかるし、簡単なのもわかる、でも子どもの頃からのイメージもあって、なかなか食べられない。
だから、思い出のカップラーメンがあるなんて、羨ましいなぁと思ってしまった。コッシーさんのエッセイ「ばあちゃんと僕と金ちゃんヌードル」を読んだ。
さまざまな病気が、技術の進歩によって発見されたり治療されていく中で、本人だけでなく周囲の家族への衝撃が大きいのが、認知症なのかもしれない。
もちろん、さまざまな症状があり、重い軽いなどの評価もあるので、一概にどうと言えないことは認識しつつも、やはり怖い病気だと思う。
本人の意識が明確に解明できていない以上、発症してしまった本人の苦悩は計り知れない。だからと言って家族がそれを我慢するというのも、不可能だろう。
”壊れていくような”姿を目の当たりにした少年コッシー君の気持ちを思えば、ばあちゃん(本文と合わせた呼称にしました)に会いたくなくなってしまうことは、当然のようにも思えてしまう。責められない。読み手も、胸がかき乱されるような時間を過ごしながら文字を追った。
思い出していたのは、仕事で実験的に行った移動販売だった。高齢者施設の駐車場に週に1回、コンビニの移動販売車に来てもらうことにした。コンビニで売られている商品がたくさん詰め込まれた車を、取り囲むようにして、買い物をする皆さんの姿があった。
施設の駐車場だが、施設の利用者や職員だけでなく、地域の人にも使ってもらいたいと、できるだけ手前に停めてもらったり、障害者福祉団体による野菜販売も行った。仕事で参加しているとはいえ、僕も毎回のように買い物をしていた。
あるとき僕は、ずっと勘違いをしていたことに気がついた。
嬉々として買い物を楽しんでいる利用者の方々は、ご自分で食べるものを選んでいる、ご自分のために買い物をしているのだと思った。
しかし、違っていた。
もちろんご自分用に買われている方もいるが、お友達と一緒に…とか、遊びに来てくれたご家族と一緒に食べたい…と、お話しされていたのだ。
あの人の喜ぶ顔が見たい、ただそれだけのために寒い日でもじっくりと商品を選ぶ姿があった。それまで、ずっともてなされる側、訪問される側だった方々が、言い方は変だが、主導権を握ったように見えてきたのだった。
コッシーさんのばあちゃんはきっと、楽しく買い物をしていただろう。顔を忘れてしまっても、誰かのために買い物をすることを忘れない、それはきっと責任感ではなく、楽しさだったはずだ。
お店の棚に、金ちゃんラーメンを見つけることができたら、きっと僕も買ってしまうだろう。思い出のカップラーメンの仲間入りである。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、僕だけでなく家族で喜びます!