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対、明白了!(はい、分かりました!)

はい、分かりました!

中国語で、相手の話を聞く時に、よく使う表現です。仲良くなってくると、最初の1文字だけを、繰り返し使うこともあります。”対、対”(あー、はいはい。みたいな感じで。)

公務員に転職して、はじめての配属は中国語を使ってコミュニケーションをとる部署でした。国際交流や、姉妹都市の関連部署ではありません。地域に住む方たちの福祉的な支援にあたる、そんな部署でした。

中国語を使っているのは、中国の方に対してではなく、日本の方に対してでした。日本人ではあったけれど、彼らは日本語を話すことが出来なかったのです。業務は、常に通訳さんを通して行なっていました。

彼ら、とはいえほとんどの方が高齢者。なぜ、日本人なのに日本語が話せないのか、それは彼らの出自が特殊だったのです。

中国残留邦人(残留孤児)と呼ばれている方々をご存知でしょうか。文字通り、中国に残された日本人という意味ですが、原因となったのは戦争でした。

30年以上前、僕が幼い頃、よくテレビのニュースで「残留孤児が日本の家族と再会」といったような話題がありました。

日中国交正常化により、昭和50年代には、かなりの数の残留邦人の方が日本への帰国を果たしていらっしゃいました。

しかし、中国で、中国人として(あるいは、憎むべき日本人、”鬼子”として蔑まれた方も大勢いらっしゃったはずです)育てられた彼らは、言葉も生活様式も、文化的な思考も、いわゆる中国人になっていました。

僕は、言葉として聞いたことはあったけれど、存在を知りませんでした。公務員として働くことになった自治体には、数十人の残留邦人の方が暮らしていたのです。

多くは、ご夫婦でした。どちらかが残留邦人で、配偶者とともに日本に帰国されて生活をされていました。

そんな政治的にも、歴史的にもセンシティブな存在に対して、生活支援をおこなえるのは公的機関しかないなと、公務員である意義を感じながら業務にあたっていました。

電話を取れば「你好ニーハオ?」と言われて、慌てて通訳さんに受話器を渡したり、制度の趣旨に則って、生活の助言のようなものを言葉を選びながら伝えたりしました。

個人的な印象として”横柄だ”と感じられた、主張が強めのいわば中国人らしい振る舞いを嗜めたりすることは、新人には荷が重いと感じながらも、地域に住まう住民として接することは、楽しいと感じていました。

長期にわたって中国へ一時帰国をして、日本での生活実態が不明になった世帯に対しては国際電話をしたこともあったし、市有地で勝手に耕作して畑を作っていた方を説得して作物を手放してもらったこともありました。


中には、おひとりで暮らしている方もいらっしゃって、その中のひとり、おしゃべりが大好きな”おばちゃん”は、いいことも悪いことも、役所の窓口にやってきて大声で話してスッキリして帰っていく、そんな方でした。

ふだんは通訳さんと一緒に、逐一通訳してもらいながら、会話を進めていくのですが、その時はたまたま通訳さんが不在でした。ふつうならば、お引き取り願うところですが、ご機嫌がよろしくない様子。

僕は、奇しくも大学で第二外国語に中国語を選択していたこともあり、また業務で使うということで、HSK(世界版の中国語検定)の勉強もしていました。緊張しながらも、なるべく穏やかにお話しできるように、筆談を中心に会話を試みました。


よく、中国語は漢字だから、書ければなんとなく意味が通じると思われていますが、それはあまり正確ではないと感じています。今では、すっかり忘れてしまいましたが、中国語は漢字の意味そのものが日本語と違うこともあります。

例えば、”手紙”は日本ではレターのことですが、中国語になるとトイレットペーパーという言葉になるように。

当時、その”おばちゃん”はご近所さんに不信感があるとか、通っていた日本語教室の話をしていたので、その日も同じように日頃の騒音や、日本語教室で話したことについて聞いていました。

やはり、中国語らしい言葉の応酬は、筆談だけでは間に合わず、おばちゃんは何かを訴えていました。落ち着いて何度か聞き直してみたり、分解してみたりして言葉を確認していたら「日本語教室にもっといきたい」と言っていることが、うっすらと聞き取れたのです。

「対、明白了!」

僕は、中国語で返しました。もう覚えていませんが、その時の対話の中で僕が中国語を使ったのは、この一回だけだったと記憶しています。

「太好了。謝々。」(良かった、ありがとう)

”おばちゃん”はパッと表情を変えて、途端に安心したような穏やかな表情になりました。僕もそれを見て、ふっと気持ちが緩みました。

満足した“おばちゃん”は、ニコニコと帰って行ったのでした。

「心配したけど、ちゃんと話ができてたみたいだね。勉強してたの?」

席に戻ると、奥で見ていた同僚が声をかけてくれました。ホッとして、言葉が聞き取れたことが嬉しかった僕は、ちょっと余裕が出てきていました。

「ハイ、チョトダケ、ベンキョー、シマシタ」


言葉の壁、は当時も今もあまり変わっていないのかもしれません。特に、介護などのケアが必要になった時、本人も、ケアする側も幸せであるのは難しいようにも思います。

言葉が通じた、その喜びのままに、帰りたかった母国で健やかに暮らしていることを願います。


#はたらいて笑顔になれた瞬間 #言葉 #理解 #仕事 #公務員


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