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市役所壁画 1

(あらすじ)

神奈川県にある川崎市では、2024年7月1日の市制100周年の記念日に向けて、第三庁舎に展示されている壁画の修復を行った。

その際、裏面に筆書きがあるパネルが1枚発見された。書いたのは誰か、そして誰のために、何のために書いたのか。

実在する壁画と、その作者の歴史を辿りながら展開するアート・ミステリー。

壁画に遺されていた画家の思いとは。
その思いは果たして届くのか。

1.市役所にある壁画


2022年 絵画教室の先生

「せんせー!描けたよー!」
「せんせー、みてみて!」

今日も教室には子どもたちの声が響く。 教室といっても広くはない。自宅の一角、もともとアトリエだったところを開放して、週末に子どもたちのための絵画教室を行っている。

 「はいはい、あら、きれいな色で塗ったねー!」
 「すてきな絵を描くのねー」

褒め上手だなんてよく言われるけれど、これは私の本心から出る言葉。子どもだからって、何もできないわけじゃない。いまこの時にしか描けない絵があるのを知っているから、その子が描いた絵を褒めるのだ。才能や技術の前に、やっぱり、楽しいなとか嬉しいなとかって思ってほしいから。

付き添いのお母さんやお父さんたちも、ニコニコと子どもたちの絵を描く姿を見つめている。みなさんいいお顔をされているから、つい私も「お父さんも絵を描いてみませんか?」なんて聞いてしまって、驚かせてしまうけれど。

私の絵画教室は、絵が好きな子どもたちが集まって描きたいものを描くだけ。共通のモチーフも課題もないし、画材がなければ私のものを使ってもらう。自由にのびのびとやって、描きたいものが描けるようになるまで、いてもらっていい。知り合いには、それ教室なの⁈と苦笑いされてしまうほどだけれど。

こんなに小さな教室だけれど、絵が好きな子たちが集まってくれるからか、毎年、幾ばくかのコンテストに入賞する子が出たりする。幸いなことに、評判を呼んで遠くからも通いたいなんて言ってもらえるけれど、親の負担になってしまうことは子どもたちにも伝わるから、お断りしている。

小田急線の新百合ヶ丘駅のそばで教室を開いて、もう20年近く経つ。空き地ばかりだったこのあたりも、家が建ち並び、駅前には大きなビルがいくつも経って、いつの間にか景色が変わってしまった。住所は川崎市だけれど、ここは北部なんて呼ばれて、車が多く走るような工業の街のイメージから遠く、自然が豊かな場所のままなのは変わらないで欲しい。

教室で使う画材が売られている店は、新百合ヶ丘から小田急線と南武線を乗り継いだ先、川崎駅から少し歩いたところにあった。駅から続く市役所通りを歩くと、まちの様子は少しずつ変化していて、通るたびに新しい発見がある。新しい市役所を建てている最中だから、いつの間にか以前の庁舎はなくなってしまって、工事の囲いの中には高い骨組みが伸びている。来年には完成するらしいけれど、本当かしら。

工事現場の向かいにある市役所の第三庁舎は、広いエントランスロビーがあって休憩にちょうどいい。ここにくるといつも、この大きな作品の前で立ち止まってしまう。多くの人が行き交うエントランスにある大きな壁画に、吸い寄せられ、見入ってしまうのだった。雑踏は心地よい音楽のように、あれこれ考えることを促してくれる。大きな大きなこの壁画を描いたのは、猪熊弦一郎という日本人画家だった。

あぁ、あの顔は笑っているのかもしれない、あれは鳥?犬?
真っ黒い大きな模様は、大きな穴、それとも羽とか風とか?

見上げても全貌がつかめないような、大きな壁画を構成しているのは、55枚のパネルだった。ひとつひとつに色彩が躍り、広い画面の中で、美しいものと力強いものとが、どうにか一緒になろうとしていた。さまざまな有機物と無機物が、その形を美しく整えられて画面に並べられている。こんな壁画、ここにしかない。

猪熊弦一郎とはどんな画家だったのだろう。これだけ大きな作品を残せるのだから、きっとエネルギッシュで探究心の強い画家の姿が浮かんでくる。ふと、亡き父のことが頭をよぎってしまう。私は、父の顔を憶えていない。

憶えていないどころか、父は、私が生まれてすぐに亡くなってしまったらしい。父も絵を描いていたと、母から聞いた。あまり詳しくは教えてくれなかったけれど、若くして将来を嘱望されるような勉強熱心な画家だった、と母が言っていたのは自慢だったのかもしれない。

目の前にある壁画のタイトルは「ロボット誕生」。川崎という街が、高度経済成長を支えた京浜工業地帯の一角としての役割の再確認、あるいは川崎の発展を支える工業都市の未来に向けて、ロボットという存在が選ばれたのか、画家のあふれる思いがぶつけられていた。


2023年 絵画修復士

修復の依頼があった川崎市役所から届いたのは、縦2m、横70㎝ほどの55枚のパネルだった。順番通りに並べれば、とても大きな作品になることは容易に理解できた。その作品を見上げているじぶんを想像した。実物を見たことがなかったのは、物理的な距離が遠いこともあるけれど、その場所に彼の作品があることがあまりにも知られていないからでもあった。

作品を制作したのは、香川県出身の画家、猪熊弦一郎。生まれ育ったまちには、名前のついた美術館(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館:MIMOCA)が建っている。日本の現代美術史に残る画家の歴史は、死後30年で、パネルに描かれた絵と同様に、こうも色あせてしまうものだろうかと、やや寂しくなった。

とはいえ、私だって依頼の連絡を受けたとき「あの場所に、猪熊さんの作品が飾られていたなんて」とつぶやいてしまったほどだった。メールに添付されていた写真を見るにつけ、彼がどんな思いでこの作品を手がけたのかと思いを馳せる。

しかし、どんな作品であっても絵画の修復は時間が読めない作業だ。早めに着手したつもりでも、予想以上に劣化していれば、何度も繰り返し作業をしなければならない。飾られている環境にもよるが、パブリックスペースにあるたいていの作品は、見た目以上に劣化が進んでいることが多い。

技術の進歩といえば聞こえはいいが、画材の原料だって年数が経っていれば変わっている。市役所の担当者からのメールには、いかにも役所らしく依頼文が添付されており、市制100周年にあたる来年の7月1日に大きなイベントをして、この作品の素晴らしさをふたたび多くの人に届けたいとあった。設置の時間も含めれば、およそ1年しか時間がない。

一枚一枚のパネルを確認していくだけでも時間がかかっていた。汚れの程度、劣化の状態、必要なケア、やるべきことはたくさんある。制作当時の資料をかき集めても、実物を再現するのは困難を極める。修復士は画家ではない。この作品を制作した猪熊もすでに亡くなっている。多くの場合、その作品を描いた画家はもうこの世にはいなかった。画家の描いた作品を、現代の技術と知識を使って修復するのが仕事だ。

パネルの裏には、左肩にそれぞれ記号が振られていて、段と列の位置を表していた。それを順番通りにならべると、大きな壁画として完成する仕組みだった。大量に使用するベースに塗られている色はすでに分析し手配済みだが、この画家らしい鮮やかで大胆な色使いを再現するには、さらに調査する時間も必要になりそうだ。

作品の裏側は飾ると見えなくなるため、画家の私的な連絡場所として活用されていることがある。被写体や売り手に宛てたメッセージが遺されていることもあった。また、制作の履歴や塗料の種類、あるいは制作意図が書かれていることもあった。


しかしながら、この画家はとても真面目だと伝え聞いていて、そういうメモの類を嫌っていたようだった。ほかの作品でも、裏に何かを書き遺すことはしていなかったらしい。

それぞれのパネルをチェックし始めて数日が経ったとき、その走り書きが見つかった。その場で作業していたスタッフを呼んで、みんなで確認した。ここまでチェックしてきたパネルには、並び順を示す記号しか書かれていなかったから、ちょっと騒然とした雰囲気にもなった。C-4パネル、左下に筆で書いたような筆跡で文字が書いてあった。

筆書きということもあって、文字がつながっていて判読しづらい。最初の2文字は名前…だろうか。昔の言葉みたい、と誰かが呟いたのを聞いて閃いた。最後の文字は、宛先を示す「江」かもしれない。「幸子さん江」と書いてあるように見えた。

誰が書いたのだろう…。

「この走り書きみたいな文字、写真撮ってMIMOCAの野村さんにきいてみて。名前だとしたら奥さんかしら。制作と関係している人の名前かも。女の人の名前っぽいから…まぁ、くだらないことはいいや。お願いね。」

数日後、MIMOCAの学芸員、野村さんから返信があった。先日、猪熊の作品の特徴などについてレクチャーを受けた時の画面に映し出された熱心な表情が目にうかぶ。収蔵品について愛情を持って語る姿も素晴らしいが、それ以外の作品についても、徹底的にリサーチしてくれる。


タイトル:お問い合わせの件について

パネル裏に書き入れがあるのは、とても珍しいです。私は初めて拝見しました。
スケッチ等に入っている筆跡によく似ているので、おそらく猪熊本人によるものと思われますが「幸子」という人物は猪熊の近い周囲にはいらっしゃらない名前のようです。

弟子や教え子のような人間関係も、男性がほとんどではあったものの、できるだけ調べてみましたが、資料からはわかりませんでした。

猪熊は、ご存じのとおり真面目な性格で、奥さんをとても大切にされていました。この作品の制作年よりもかなり前に奥様はお亡くなりになっていますし、お名前も文子さんです。

今作は、神奈川県川崎市の依頼で制作された作品なので、川崎市ゆかりの人物に宛てたのかもしれません。奥様の出身もあたりましたが、川崎市ではありませんでした。川崎市から依頼された経緯などを記した資料にも、それらしき職員はいないようです。

猪熊は、川を挟んで川崎の対岸にあたる世田谷の田園調布にお住まいだった時期はあるものの、川崎市内に住んだ記録はないようです。

猪熊は生前、川崎市内の工場跡地で、大きな作品を制作していたことがありました。ただそれも今作の40年前のことで、1950年代であり、残されている資料からは、当時お世話になった方々に同じ名前の方はいらっしゃらないようでした。

さらに作品としての位置を確認すると、猪熊が書いたと思われる文字が書かれているパネルには、裸婦が描かれています。画家にとって裸婦は、一般的には美の象徴であり、俗っぽい表現では憧れの存在ともいえます。

猪熊が憧れていた存在が描かれていた、と考えることもできますし、幸子という人物に宛てて描いたことを忘れないために、あるいは将来に残すために書き留めたのではないかとも考えられます。

いずれにしても、今までいくつもの作品を観てきた経験からすると、猪熊の思いがひときわ強く込められた作品であることは疑いようがありません。

私も肉眼でその筆書きを拝見したいです。

今後も作品についてご不明なことがありましたら、お気軽にお問い合わせください。今作の修復にお力添えをいただき、MIMOCA一同、感謝いたします。


野村さんにも分からないなんて…、誰が何のために書いたのか分からない…。そうつぶやいて、筆書きの写真に視線を落とした。


第2話へ

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

2.画家と弟子

3.新しい庁舎

4.完成した壁画と30年後の発見【最終話】







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