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蕎麦屋の娘

小学校の頃、目の前で授業をしている先生が、自分達と同じように暮らしているなんて、あまり考えたことがなかった。年賀状や暑中見舞いなどで、その住所を知って、あぁ遠そうだなとか思っていたものだ。

今でこそ、我が子の様子を見れば、暑中見舞いはないし、年賀状も学校あて。先生の住まいを知る由などないし、子どもたちの住所はいくら書いても、学区内である。

ちなみに僕は小学生の頃は、父の影響もあって年賀状は版画だった。葉書大のゴム板を(血だらけになりながら)彫って、一体何が描いてあるのかわからない、たぶん干支だろうと思われるような、そんな年賀状だった。

小学校2年生のとき、担任の先生は大学を卒業したての、女子大生みたいな先生だった。当時はバブルの残り香のある時だったから、今考えると結構派手だったのかもしれない。キャピキャピして、小学校2年生と一緒に遊んでます!みたいな先生だった。

その先生が、夏休みに生徒たちを実家に招待したことがあった。もちろん夏休み前に先生から提案があった。

「先生のうち、お蕎麦屋さんなんだけど、みんなで食べに来ない?」

当時、その先生のうちの最寄り駅が川崎で、小学校からは歩いて近くの駅まで移動し、そこから電車で20分くらいの距離だった。確か、ほとんどの生徒が希望したから、数日間に分けて「先生のうちツアー」は実施された。

小学校に集合して、何人かで先生の引率で川崎へ向かう。僕は川崎に行くことはほとんどなかったので、旅行気分だった。電車に乗るのは、その先の新幹線や飛行機に乗るための手段、ということが多かったので、川崎で降りることが珍しかった。川崎駅から、どう歩いたのか覚えていないが、とにかくお蕎麦屋さんについた。

お店で食べることも嬉しかったが、夏休みに友達と会えることも、ちょっと得した気分だった。食べるものはなんでも良かったから、冷麦が出てきても驚かなかった。親から「ちゃんと払いなさい」と持たされた千円札も出番はなかった。

当時はまだ、多摩川の河川敷にコロンビアレコードのロゴが入った大きな看板があったはずだ。かつて大きな製糖工場だった場所は、大きなビルがたって、その一つがリクルート事件として日本中を揺るがすきっかけになったものだった。

夏休みが終わろうとしている、ちょうど今くらいの時期に行ったのを、なぜか大人になると思い出す。先生はその後数年で、結婚して先生をやめてしまった。お店はあるのか、もうわからない。


学校ではないところで会う先生のちょっとした新鮮さが懐かしい。インコの蕎麦屋、かわいいですね。infocusさんありがとうございました!

#夏休み #忘れられない先生 #蕎麦屋

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