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旅にもつ2020・2019

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旅する日本語2020、2019のために書いたもの。初めてのショートストーリーの創作。
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#ショートストーリー

君の髪

きみのショートヘアーが、恋しい。 若いパティシエは、美しい恋人のブロンドの髪を想った。緩やかなカーブに、艷やかな色、ふわふと弾む毛先の感触が、彼の指に蘇る。 勤めているキャフェでは、新作ケーキの試作が始まっていて、多忙を極めていた。恋人はおろか、自分の顔を鏡で見る余裕もないくらい、一日中厨房にいる。 クリーム、フルーツ、チョコ、色々試してみるが、なかなか見つからない。求めているケーキは、こんなのじゃない。 ふうっと息をついた刹那、よろけて背後のテーブルにぶつかる。カラ

仏和食

作り手の特権、なんて言葉がある。 余った材料を食べたり、焼き立てを味見したり。 いまも、具をおかずのように食べてしまった。 とにかく美味しい瞬間に立ち会って、いや、その瞬間を作り出しているんだ。 あんまり他人には言ったことがないけれど、僕はキッシュを焼くのが好きだ。 得意ではなく、好きなのだ。 毎回、具も味も見た目すら変わる。 それはキッシュが家庭料理だからだ。 フランス生まれだから、フランス料理なのかもしれないけど、まさかキッシュになす味噌炒めが入ってるなん

しらせ

冗談のつもりで、植木鉢に種を植えてみた。 種は、きみがとても喜んでくれた、奈良県で穫れた甘い柿の種を洗って。 種なしが増えてきたけれど、あの柔らかい実に、しっかり違和感がある方が、面倒くさいけど、僕は好きなんだ。 子どもの頃の僕は、種が育って大きくなって実ができれば、食べ放題になると思ってた。 でも、種を植えたことはなくて、結局、農家や山じゃなきゃ育たないことを知ってしまったのだけど。 ベランダに置いて、冬を越した。 春になっても芽が出なければ、忘れてしまうところ

傘事情

嘘だ、信じられない・・ この傘を持って出たのに、雨に降られるなんて。この傘を買って以来、使ったことがない、魔法のような傘だったのに。 僕は、折畳傘が苦手なんだ。きみは、いつも「オリタタミじゃないほうの傘」と言っているけれど、僕は知っている。それを棒傘と呼ぶことを。 両手で引いて傘を開く。骨と布とが引っ張り合って、少しだけ軋む。新しい布に当たった雨は、コロコロと転がりながら落ちる。 本を読みたくて手袋を外すと、雨粒が手のひらに落ちてきた。 あれ、あんまり冷たくない。

選書運

ときどき、読み始めると止まらない作品に出会うことがある。食事も、トイレも、眠るのも、きみと話すのも忘れて、ページを繰る。 季節を問わないから、いつの間にか寒くて風邪を引いてしまうこともあったし、電車を乗り過ごすことも当たり前。 現実逃避どころか、仮想現実に没入して帰ってこられない、そんな感じなんだ。 でも、同じ作家さんが書いたほかの作品を読んでみても、ニ度と同じ感情は沸いてこない。 一途に読み通す、生一本の読み手。 笑いながら、きみはちょっと難しい言葉を使った。北海

運動靴

気散じに、出かけよう! きみがくれたスニーカーの箱に書いてあった。兵庫県で作られた日本製だからって、ちょっと古臭くないかなぁ。きみが履いているのは知ってるよ。 誕生日なのに、仕事でミスをした。久しぶりに、ひどく叱られてしまった。それだけだけど、落ち込んだ。そんな僕の様子を見て、きみがくれたのは新しいスニーカーだった。 歩いてもいいし、走ってもいい。 きみは、走らずにいられなくて、と言って走り出す。颯爽と風を切るきみの姿が、眩しい。 ありがとう。 僕の好きな青と白の

靴磨き

心が落ち着かないときに、僕は靴を磨く。 いや、僕が靴を磨いているときは、悲しかったり怒っていたりするのだと、きみが教えてくれたんだ。 新聞を広げて、靴紐をすべて抜いてから、ブラシで埃を払う。布で軽く拭いて、クリーナーを伸ばして、拭き取るよ。 靴墨をキズやスレに載せるように塗って、柔らかいブラシで伸ばすように撫でる。僕は、この独特の香りがたまらない。つい深呼吸しながら、表面を見つめてしまう。 寧静と呼ばれる、このひとときが僕を癒やしているのかも知れないな。 靴墨は、東

肩書き

目で見ても、耳で聞いても、それは現実のものではないような気がしていた。小さな命が僕の前に差し出され、恐る恐る手と腕で抱いたとき、再び圧倒的な感情が湧き上がる。 弥立つ。 父親としての感覚は、いつ生まれるんだろう。体は変わらないから、自覚なんてできるわけがない。そう思っていたけれど、その瞬間は確かにあった。 新しい命の存在を知らされたのは、岡山県の豊島に旅行しているときだった。母体を表現したという美術館で、そのことを聞いたとき、なぜか自分が胎児になったような、怖くて温かな

宅配便

オンライン この言葉の寂しさったらない。 便利とか安全とか、そういう以前に、寂しい。飲みに行けば、大声で笑い合えるのに。 タツヤと僕は、食べ物も、マンガも、女の子だって、好きなものは何でも同じだった。まるで双子だね、と言われるくらいに。 「おいカズヤ、聞いてるか?」 ふっと我に返る。玄関からも音がした。 「あ、ごめん。あ、なんか来た。ちょっと待ってて」 宅配便だった。 「え?タツヤから?なんだこれ。服?」 「まぁね、着てみろよ」 「よっ。ふぅ。・・って、お

紅葉狩

わたしはずっとふさぎ込んでいた。 ペットロスというやつだ。 秋晴れの空を見ても、心は一向に晴れなかった。 「そしたら、"きさんじ"に行こう」 "きさんじ"とは何だろう。 お寺?いま流行りの"鬼"が、参った寺とか?それとも、奇妙な3時のおやつ? 友人の運転で、栃木県まで来てしまった。日光なんて、小学生以来かも。 山が燃えているように黄色くて紅い。都会育ちのわたしは、紅葉に囲まれる景色に見入った。緑一色のはずの山が、色とりどりに変わっていた。 食べるものも美味しく、わた

会員制

瞑想、祈り、自らと今ここをつなぐ。私は、マインドフルネスにハマっている。 果てしない残業、家には騒ぐ子どもとイラついている妻。 そんなビジネスパーソンにピッタリのカフェが、埼玉県内にオープン 帰り道の電車で、見つけた。 「カフェ寧静」 名前こそカフェだが、完全個室の会員制スペースらしい。期間限定の無料登録のため、サイトにアクセスする。個人情報を登録し、メールで送られたURLで認証、性格診断に。 よくあるものから、斬新だったり難解なもの、とにかく直感で回答。 あれ

真面目

公務員とはいえ、高校を卒業して就職するのは大変だろう。モラトリアムと呼ばれる、就職準備のような遊びの時間がほとんどなかったはずだ。 目の前で、真面目にマニュアルを読み込んでいる後輩を見ていて思う。出身は富山県だが、中学生のときこちらに越してきたのだという。 わからないことは聞いて、と言った手前、日々の質問に答えていくが、数が多い。マニュアルが適当すぎるのかもしれない。 真面目な後輩は、法令集を傍らに置き、マニュアルの言葉を調べ、時には電話の応対の練習なのか、小さく呟いて

栗独白

拙者は、栗だ。 生まれは秋田県の角館、西明寺栗などとも呼ばれておる。 皆は栗が好きか。日本は栗好きな御仁が数多(あまた)おるとは、まことか。 いま拙者は、モンブランなるケーキに乗っておる。如何なる出会いがあろうか。 おーい! あ、目が合うた。もしや、拙者の声が届いたのか。 穏やかに、しかし睨めつけながら近づいてくる。喉鼓が聞こえてくるような顔つきをしておる。 ケーキを好むとは、児子(ちご)のようだが、拙者も兄弟や父母の手前、食べてもらわねば浮かばれぬ。 しかし

贈り主

「梨で、ご飯が食べられるくらい好き」酔った勢いで言った気がした。 先生は、聞き逃さなかった。 それ以来ずっと、秋の始まりに、梨を送ってくれた。先生の地元は、とても甘くて大きな梨が穫れる東京都の西部。 去年の冬、転勤が決まって便りを出した。梨の御礼と、次の秋への期待も込めて。 返事が来た。 先生は、ほんの数ヶ月前にこの世を卒業したらしい。驚きと悲しみが押し寄せ、泣いた。 「桜の時期に、梨も咲くんだ。梨は背が低いから、雪景色みたいだぞ」 先生の笑顔を思い出した。