マックのハンバーガーとセブンのコーヒー片手に考えたこと
4月末、日曜日。午後3時半。上荒田の杜公園にて。
マックのハンバーガーとセブンのコーヒーを貪りながら駄文を書いてみようと思う。
最近、何が自分にとって「大人」なのか考えることが多い。復学して始まった大学生活。楽しくないわけではないが、「この90分、別のことに使えるな」「このレポート書いてる時間、あれができるな」と思うことは多い。そしてなにより、スケジュールが縛られてしまうことがしんどい。今までは、思い立ったら飛行機や電車のチケットを取って、行きたい場所に、会いたい人のもとに行くことができた。でも今は、講義を中心に生活が回っているからそうも行かない。休学期間中の生活の方が特異な状況なのは分かっていつつも、コロナ渦のオンライン授業から直接休学に入った私にとって、この生活は中々に苦しい。
そして、それに輪をかけるように降りかかってくる就職活動。まだ本腰を入れてはいないものの、毎日確実に少しずつ心に侵食してきている。これも含めて就職活動なのだろうか。
大人になるのは、すごく、難しい。大人ってなんなんだろうか。大人の基準はどこなんだろうか。ありがたいことに私の周りには大人がたくさんいる。こんな私を可愛がってくれる大人がたくさんいる。本当に恵まれていると思う。
だからこそ、迷う。どんな大人になれるのか。私は2年後、社会の一部として機能できるのか。周りの人たちは「あなたは頑張ってきているのだからすぐ決まるよ」「それだけやってるなら大丈夫でしょ」と言ってくれる。でも私は全くそう思えない。
休学して、いろんなことに首を突っ込みまくって、たくさん悩んでたくさん笑って、経験自体はしてきた。でも、本当に経験しかしていない。見てくれは色々してる活発で元気な女子大生かもしれないが、中身は本当に可哀想なくらいともなっていない。自分の中に確固たる何かが、生まれてこない。どうして私はこんなふうになってしまったんだろう。
昨日友人と呑んでいて気づいたが、私は行動の全ての動機が他人にある。「これをしたら、皆んなが喜んでくれる」「これを断ったら、次から誘われないかもしれない」「嫌われたくない」こんな想いで生きている。だから、ちょっと阿呆だけどある程度ノリのいい断らない奴を自分で作っている節がある。これも私だから、演じているなんて決して思わないけど、自覚している時点で何かをちょっと無理しているのだと思う。その何かが何なのかは分からないけれど。
私の今の生き方というか、処世術みたいなものは賞味期限があるだろう。パパ活をしている女の子のように、夜職をしている女の子のように。ちょっと珍しいことをしているある程度ノリのいい女子大生はあと2年しか使えない。卒業してもこんな振る舞い方をしていたら、ただの阿呆なそこらへんの女だ。
この時代にジェンダーを話の軸に持ち出すのはコンプラ違反だと思うが、自分で女子大生という女性性や、「もなん」というキャラクターを自覚して使っている節はある。コンテンツとして消費されている自分を自分で売っているのだ。心底気持ちが悪い。死んでしまいたくなる。
だけど、そんな私を見抜いてる人は確かにいて、「変に大人ぶるな」「本当は何も考えてないでしょう」と言われる。本当にその通りだ。ぐうの音も出ない。だからこそ怖い。今、私がみんなにどう映っているのか。どう見えているのか。知ることが怖い。だからそれを隠すみたいに、「笑顔いっぱいの楽しそうでご機嫌な私」を盾にしているんだと思う。
話は戻るが、就職活動においても同じようなことを言われるのだろうと思うと本当に気が滅入る。相手は死ぬほど就活生を見てきた人たちだ。小手先の振る舞いや見せかけの思いみたいなのは絶対に見抜かれる。中身のない私をまざまざと自覚させにくる。私はたぶん、これから人生で一番苦しい期間に突っ込んでいくのだろう。
みんな、こうやって大人になっていくのだろうか。これが大人になるということなのだろうか。だとしたら私は、大人になるのはやっぱり怖い。
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