ニートに夢を語る権利はあるか

 数日後、ニー株内で上記の議題で討論会を開く予定だ。
 当日はファシリテーター的ポジションに立ち自分の考えを述べない予定なので、フェアになるようそれに先んじて、ここに自分の考えを記しておこうと思う。

「ニート」「夢」「権利」

「ニートに夢を語る権利はあるか」

 そう問われた時にどう思うだろう。
 そりゃ「いやあるだろう」って言い返したいけど、「社会人として最低限の義務を果たしていないのに、それ以上を望むのは順番がおかしい」と言われてしまえば、その正論に言い返すのは中々難しい。

 なのでこの正論に言い返すために、まずはこの問いかけを三つに分解してみようと思う。
 数学の授業であった(1)(2)(3)みたいなものだ。

「ニートに夢を語る権利はあるか」

 この文章は「語る」に三つのキーワードが付け加えられたものだ。
 「ニート」「夢」「権利」
 これを一つずつ分解して付け加えていきたいのだが、よりコアなキーワードな順に「権利」「夢」「ニート」と加えて解説していきたい。

(1)語る権利

 権利というのは往々にして「義務」とセットである。
 権利が無いと言われるのはルール上権利が無いという場合か、義務を果たしてないから無いと言われるかのどちらかが殆どだろう。

「ニートに夢を語る権利は無い」

 と言われる場合はその後者で、労働と納税の義務を果たしていないから夢を語る権利は無いというのが基本だろう。

 じゃあそもそも、語る権利は義務を果たしていないと取り上げられるべきものなのか。
 これは否である。
 基本的人権と同じように、言論の自由により発言の自由は憲法で保障されている。

 などと言っても、まず誰も納得しないだろう。
 ニートは「労働の義務」を果たしてないのに権利だけ主張するのか、と言われるだけだ。
 義務だけじゃない。発言には責任が伴う。
 一般的な上意下達の会社において、代表取締役の発言が会社の総意と捉えられるように。

 だからまず、「語る権利」について。
 私は「語る権利」は「義務や責任」とセットで議論されるべきという点については、その通りと賛同する。
 言論の自由を盾に何を言っても良いとまでは、私も思わない。

(2)夢を語る権利

 「語る権利」が義務や責任とセットで語られるべきなのであれば、一歩踏み込んで夢を語る権利とは何とセットなのだろうか。

 それは「現実を生きる義務」だと思う。
 ミュージシャンになりたい。遊んで暮らしたい。ゲーム配信で稼ぎたい。
 誰しもが夢を見たり、或いは夢にまで形にならずとも素晴らしい生き方を思い描いたことがあるだろう。
 だが現実は非常だ。そんな憧れの生き方を出来るのは一握りで、殆どの人は客に怒鳴られ、上司に怒られ、同僚に愚痴られ、自分を殺して働いて生きる事が「普通」だ。それが「当たり前」で、「皆そうやって頑張ってる」のだ。
 故に、そういった普通の人たちからすれば「夢を語る」というのは非常に腹立たしい行為であろう。自分だってそうしたかった。そんな眩しい姿を認めてしまうと、我慢している自分がなんだかバカに思えて、損しているように思えて許せない。
 嫉妬は怒りを産み、他者の権利の否定という攻撃を許す。

 だがまぁ、成功者が夢を語るのは良いのだ。
 だって、「成功者は自分と違う」。
 そうやって上だと認め、自分には無理なのだと思えるのなら「仕方ないと思える」。我慢をしなければならない理由になる。
 辛い現状を変えることを怠けている自分を許す理由が作れる。

 そういう人が「普通」で「皆」で「当たり前」なのが今の日本という国だ。
 故に「皆」は「夢を語るのには順番がある。まずはやるべきことを全てやってから言え」と言うのではないだろうか。
 そしてこうも言うだろう。

「夢ばかり語って責任を放棄して、そんな奴らを認めて当たり前になってしまえば誰も働かない社会になるぞ。お前はその責任が取れるのか」

 なので、私の見解としてはこうだ。

①シンプルに憲法上の権利を主張するのであれば憲法上の義務も同時に果たせという人
②現状を変える事を怠っている自分を否定されたくないから、夢を語る権利を攻撃している人

 多分否定してくる人の9割方は②だと勝手に思っているので、そのような取るに足らない感情論は相手にする必要がないんじゃないかなと思っている。

(3)ニートが夢を語る権利

 ニート。言わずと知れた就労していない成人だ。
 まぁ昨今では何らかの方法で稼いでいるニートも幾らでもいるので、雇用されて安定収入を得ていない大人、の方が相応しいだろう。

 いよいよ元に戻ってきた。
 先ほどの「夢を語る権利」において、①の「憲法上の権利と義務」を語る人に関しては結論を保留した。
 改めてニートという人種を振り返ってみると、まぁ大部分が稼働収入の無い人が殆どだとは思う。少なくとも所得税をしっかりと納めている人は極少数だと思う。
 ニートでもしっかりと稼働収入を得て所得税を納めているニートに関しては(これをネオニートと呼ぶかフリーランスや個人事業主と呼ぶかは議論が分かれるが)、①の人たちも夢を語ることを問題なく賛成してくれるだろう。
 ならそれ以外の大多数のニートはやはり夢を語るべきでないのかというと、それでもやはりあると言いたい。

 正直、「憲法上の権利は憲法上の義務を果たしてから言え」というのは正しい。これには頷かざるを得ないと思う。
 正しさは守られなければならない。何故なら正しさに拠って多くの人が生活するからこそ、社会の秩序は守られるからだ。社会の秩序が守られることによって、多くの人が安心して生活を送り、結果幸せを得られるからだ。

 しかしやはり、思うのだ。「正しいだけの理論に価値があるのか」と。
 今の日本を見て欲しい。正しく、誰の迷惑にもならず、しかし生きる以外の選択肢を選べないが故に我慢して働くのが「普通」である日本を。
 それを幸せな社会と呼べるのか。
 あくまで正しさは人の幸福を補助する手段に過ぎない。生きる為に犯罪に走らざるを得ない人がいるように、正しさだけでは救われない人は、この落ちぶれた社会にはいくらでもいるのだ。
 勿論だからといって犯罪やテロ行為を容認するつもりは無い。
 だが夢を語ることはそこまでの悪影響を及ぼす行為だろうか。せいぜい一部の人の機嫌を損ねる程度だと思う。

 ニートとひと口に言っても色んな事情を抱えた人が居る。
 ただ、就職して我慢して働くという当たり前に絶望し失望し、その結果ニートのままでいることを選んでいる人は決して少数派ではないはずだ。
 社会に適合できず弾き出され、批難の目を向けられている私たちにとって、生きるというのは辛く、とてもつまらないものだ。
 もしそんなニートにとって、夢を語るという些細な我が儘が生きる希望になって、指標になって、いずれ社会参画の糸口になるのであれば。
 それならば、「ニートが夢を語る権利」は容認されるべきだと私は考える。それを否定するのはニートに希望を持つなというのと同義だ。少なくとも己の心と生き方を殺して働けというよりは、余程まともな考えだと思う。

 以上です。
 もしご意見ご感想があれば、是非コメント等でお聞かせいただければ幸いです。

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