中二病の心

 この時期になると何故か昔のアニメを見たくなる。
 シュタゲやひぐらし、ギアスなど。夏が舞台の奴から連想するのかもしれない。

 多分、俺は死ぬまで中二病だ。
 幾つになっても運命に抗い、仲間と共に足掻いて、困難を幾つも乗り越えた先で細やかな幸せをつかもうとする姿に憧れ、身悶える。
 そんな自分を可笑しいとはやっぱり思うけど、別にそれで良いと思っている。むしろなんで皆この病を捨て去ろうとするのかとすら思う。

 思ったのは、中二病というのは理不尽を跳ね除けられる力が自分にあると思おうとする心の動きだということだ。
 世の中に理不尽は溢れている。
 理不尽というのは当然、強盗に親しい人が殺されるとか、交通事故で死ぬとか、謂れのない批難とかそういうのもある。でもそれらだけじゃない。自分の選択でもないのに因果も脈絡もなく降りかかる不利益全てだ。
 どういった親の元に生まれるか。生来の才能。人との出会い。生きていく時代。それらの環境が自分の人生の大半を変えてしまうのに、選ぶことは出来ない。
 今感じているこの苦しみが理由のあるものでなのであれば、次同じ状況に陥った時に自分が適切な対応をすれば避けられる。だがそれが理不尽なものであれば、自分が悪くなかったのであれば次状況になった時も避けようが無いということだ。それは生物として受け入れがたいフラストレーションだ。
 理不尽とは、避け得ぬものだ。避け得ぬのなら耐え忍ぶか抗って跳ね除けるかしかない。そんな跳ね除けるための力を求めるのが、中二病なのだとお俺は思う。
 まぁその想定する理不尽や求める力の規模が現実離れし過ぎていて、滑稽に見えてしまうのはその通りなのだが。

 兎に角、仰々しい詠唱や封印されし右腕や邪王真眼というものは、その本質ではない。世界規模の理不尽にさえも抗える力が欲しい、というのがその本質なのだ。
 力、資格、運命、宿命、どんな言葉であれ、自分の意志で望む未来を引き寄せられたらという願い。自己効力感の暴走とも言える症状なのだと思う。

 そういう意味で、確かにその暴走は可笑しく、思い出せば恥ずかしい経験ではある。だがだからと言って、理不尽への対応が「抗う」より「耐え忍ぶ」方が利口だという証左にはならない。
 すべての理不尽、例えば時間という因果関係に抗おうとするのは、流石に無理があるだろう(時間遡行)。だがだからと言って大切な人を奪った社会に抗おうとすることは当然の反応だ。
 結局は全てではなく、しかし身の程を弁えた範囲で抗っていくこと。そして大事なのは、身の程を弁えるというのは下向きではなく上向きで捉えること。つまり、「自分はこの程度の人間だからこれには立ち向かっても無駄」ではなく「いつかこの理不尽に立ち向かうために、自分の身の程を底上げしていこう」と考えることだと俺は思う。
 中二病の笑うべき点は「抗う」という点ではなく「一足飛びに力を手に入れようとする」という点だ。いずれ理不尽に直面した時に慌てて力を求めるのではなく、予め自分の力を高めて準備しておくというのが、本来あるべき姿であろう。
 まぁアニメとかの場合は大体は生まれてから間もない少年少女だから準備期間とかないけどね。

 そういう意味では、現代日本においては両極端に過ぎると感じる。
 抗うことを嘲笑し、耐え忍ぶのが正解としたり顔で言う大人。或いは理不尽を嫌い徹底的にコントロールできると思っている知識人。
 人が泣こうが喚こうが、理不尽は起こる。それが無いのはゲームの世界だけだ。何をどう準備しようと予期せぬ、そして責無き不運苦境はやってくる。
 じゃあそれに直面した時はどうするのかというと、台風をやり過ごすのが正しいという論調になる。
 全てに対応できるはずがないという前提のもと、対応できる範囲を増やしていこうとするのが、大事なのだと思う。

 まぁ偉そうなこと言ってるが、詰まる所俺が中二病のままなのは変わりない事実だ。
 即ちコツコツ力を増していくのを面倒くさがり、一足飛びに大きな力を得ることを夢見ているということである。

 理不尽は多かれ少なかれ全ての人に降りかかる。もし同じだけの幸運があればその理不尽も大きな困難にはならずにやり過ごせるのだろうが、そうでない人も多い。
 本当に不平等な世界だなと思う。
 ありのままの自分が愛される人なら、それは良いと思う。
 だがそんなの一握りだ。他人が当たり前に持ってるそんな細やかな幸せすら、人によっては多くの理不尽を乗り越えた先にしか得られぬものだったりする。
 「幸せは気づけばすぐ隣にあるよ」なんて言葉はまやかしだ。自分がそうだったからといって全ての人が幸せをはじめから持っているとは限らない。あったとしても、その気付くというアクション自体が多くの困難の先で得られるものだったりする。自分の成功体験を安易に他人にも適用する奴には虫唾が走る。
 そういう人ほど、自身の享受している当たり前の幸せが、誰に犠牲を押し付けて維持されているかに無頓着だ。「有難い」の意味を知らないのだ。
 そしてそんな細やかな幸せを得たいと足掻いた結果、既にそれを持ってる大勢によって悪と断罪される。そこに敬意は無く、あって憐憫のみ。ならどうすれば良かったのか。初めから持たなかったものは黙ってそれを甘受し続けろというのか。違うといっているが、実際はそういうことなのだ。見えない所で大人しくしとけ。目障りだから主張するな、が人の本性である。俺自身も含めてな。

 本当に度し難い生き物だよ人間は。
 当たり前というのはそこにあるものを学んでいくものではなく、自らの経験をもとに勝手に作り上げていくものだ。
 根拠は自分一人の人生経験でしかない癖に、それが当たり前、皆に適用されると勘違いする。
 そうやってまた悪意無き理不尽で、他者を殴るのだ。

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