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AIと絵師の未来

序文

 まず最初に断っておかなければならないのは、私はAIを使って絵を作るクリエイターでも絵師でもない。
 絵なんて一切描けないタイプだし、AIについては「なんかプロンプト入力するんでしょ?」ってレベルである。ChatGPTすら触っていない。
 つまり、完全無欠の外野である。
 そんな外野からの私見に過ぎないということは、ご理解いただきたい。


 ChatGPTが世界を席巻して以来、ニュースでAIという単語を見ない日は無い。
 沢山の人が日々AIを使ったり、AIを危険視したり、儲けたり、仕事を奪われたりしていて、そんな悲喜こもごもな様子を、私はわりと傍観している。

 AIについてどう思うかと聞かれると、「個人的には嫌いだけど人類にとっては有益なもの」と答える事になる。
 そう思う理由を、今回はAIと絵師を例に挙げながら書いていこうと思う。

未来予想

 まずは、未来予想且つ結論から述べたい。
 並大抵の絵師は市場から駆逐され、AI絵師は広く普及する。
 これは断言してもいいと私は確信しているし、それが故にこういう言い方は心苦しいが、はっきり言って無駄な抵抗はおよしなさいというのが本心だ。
 しかし同時に絵師という仕事は当面の間絶対に無くならないし、生き残るために方向性を合わせて腕を磨いた方が建設的だと、私は思う。

 何故ここまで断言できるかと言うと、歴史によって証明されているからだ。
 紡績工場の機械化から、産業革命が起きた。それと同じことが今起こっているのだ。歴史は繰り返している。

産業革命

 産業革命の本質は何か。
 本質が問われていてもその答えは幾つもあるが、今回の話で言うなれば「インプットとアウトプットの空洞化、及び正確化高速化」であると考える。
 人間は道具を使って文明を築き上げていく生物だ。そして道具の本質は「人の行動」と「望んだ結果」の間を簡略化、可能であれば空洞化させることで、時間や思考や体力など様々なリソースを軽減することだ。
 リモコンのボタンを押すことで部屋の温度を調整するエアコン。マウスをクリックすることで遠い場所にいる素顔も知らないVtuberの過去の映像を見れるパソコン。
 どういった仕組みで動いているのか理解していなくても、行動と結果が繋がっていれば満足できるのが人間だ。
 そしてそれが証明されたのが産業革命である。

 それまでの道具といえば良くも悪くも単純なもので、誰もがどういう仕組みかはある程度把握しながら道具を使っていた。無論、学が無ければてこの原理という知識は無かっただろうが、「長い方に力を入れたら楽」というくらいは分かって鍬を振っていたのだ。
 いわゆる「カラクリ」とでも表現されるような、複雑な機構を持った道具も昔からある。しかし基本的にそれらは作った本人など、専門家にしか動かせないものだった。

 だが産業革命では機械が普及した。
 どういった仕組化は分からないが、「こうすればこうなる」だけ分かっていれば結果が得られるというのが一般的になったのが、産業革命だ。
 それまでは論理的であれ体感的にであれ、ある程度の仕組みを理解出来ない事には良い結果を出せない「技術」中心だったのが、理解せずすっ飛ばしていようとも一定の結果を得られる「機械」中心になっていったのが、産業革命だと私は捉えている。
 その利点はご存知の通り、大量生産が可能になることであり、それによる価格破壊であり、それによる一般化である。

AI絵の歴史的な文脈

 では、同じような観点からAIを、特にAI絵を例に見てみよう。
 AIも当然人間にとっては道具である。だが、これまでの機械と同じとは言い難い、ある種の異質さをはらんだ道具であることは皆感じていると思う。
 それが何かと言うと、「思考の省略」が出来てしまうのがAIだからだ。まぁ"Artificial Intelligence(人工知能)"なのだから当たり前なのだが。
 これまでの機械は人の「動き」をより素早く且つ精密に代わりに行うことで、その「動き」を空洞化出来るのがその役割だった。
 しかしAIはその名の通り知能を以って「思考」を代行し、空洞化させるのが役割なのである。
 これまでも「絵の描き移し」というのは機械で可能であった。いわゆるコピペだ。それがAIによって独自に「思考」し、それなり以上の絵がたった数分で作られてしまうのが危機感の原因である。

 まぁそんなことは改めてドヤ顔で語るようなことでもない。
 であるのに何故改めて強調したかと言えば、それは「思考」により注目すべきだと示したかったからだ。

思考の独自性

 人間にとって「思考」とは何かというと、「前提から結論までを因果関係で繋ぐもの」である。
 これをAI絵的に表現するとどうなるか、「『プロンプト』から『絵』を、『強化学習』によって繋ぐもの」である。
 強化学習とは(私の勉強が間違っていなければ)、「試行に対しての評価(〇✕)のフィードバックから一定の法則を見出し、その法則を用いた試行の繰り返しによって検証及び修正を繰り返していく」ものである。
 従ってシステム的な必然として、肯定されるものは「良いと判断される確率が最も高い」ものである。
 つまり「一般受けの良い物を一瞬で作ってくれる」とも言えるが、「一般受けの良い物しか作れない」とも言えるのだ。
 或いは将来的には敢えて少しずらす技術も出てくるだろうが、そのブレイクスルーは現時点では中々難しいのではないだろうかと想像する。
 何故なら、AIには主観が無いからだ。

 さて、ここで議論を人間に戻してみよう。
 人間にとって「思考」とは何かというと、「前提から結論までを因果関係で繋ぐもの」である。
 重要なのは「因果関係」である。
 パブロフの犬という実験をご存じだろうか。ブザーを鳴らしてエサを出してたら、ブザーがなるだけで犬がヨダレを垂らすようになったというアレである。
 パブロフの犬が分かり易いが、人間に限らず生物は経験から因果関係を身に着ける。おそらくは「考える前に動け」という必然性からの進化であろう。
 そして勘違いしてはいけないのは、人間はその認識がより複雑なものまで及ぶとはいえ、やはり同じように因果関係は経験則的なものだ、ということだ。
 手と手を勢いよく合わせれば音が鳴る。その因果が崩れる事があることを、誰かに耳を塞いで貰わない限り知り得ない。或いは真空中だと聞こえないのだと、知り得ない。
 そして経験則というのは極めて主観的なものであり、歪みがあって当然なものである。遺伝子的な違いに始まり、生育環境による幼児期幼少期の人格形成、成功体験や失敗体験、人との出会い、自身の選択。
 そういったあらゆる経験が時系列的時間差を伴って少しずつ認知を歪めていく。それがいわゆる個性というものである。
 そしてその認知の歪みこそが良い悪いの判断に微妙なブレを生み、目的や表現の幅を作るのである。

 改めて、AIに視点を戻そう。
 AIの判断基準は多数のフィードバックである。そしてその目的は明確であり、ポジティブなフィードバックである。
 多くの人からのフィードバックという、認知の歪みの形成にとってネガティブな形式をベースにしている限り、独自性による開拓は未だ人間の役目でしょう。
 AIは構造的に、人間の後手に回るようになっていると考えます。

AI市場

 哲学的、文化史的考察はここまでにして、市場的な考察をしてみよう。現実問題、人は1週間飲まず食わずだと死ぬのだから。
 因みにこっちに関しては普通に素人なので、より一層参考程度に読んでいただきたい。

 先程はまぁ「AIは独自性では人間に勝てない」とか勿体つけて散々こき下ろしては居たが、当然というか、製品生産能力ではむしろ人間には勝ち目がないとさえ言える。
 製品、という表現が正しいかは分からないが、「実用にたえれば十分な安価且つ手に入れやすいもの」、或いは「特定の目的を満たせれば、後は明確な粗が目立たなければ安価であることの方が重要なもの」。レストランの料理に対するインスタントであり、工芸品に対する100均である。
 AIというのは粗が目立たないという要素においてはピカ1とさえ言える。今は発展途上故に指が6本だったりするが、まぁ時間の問題だろう。値段や時間も言わずもがな。

 「○○に使えるそれっぽい絵をください」という絵師さんの仕事は、申し訳ないが死滅するだろう。人間の技術が機械の効率に無価値化されてきた例は、枚挙に暇がない。
 むしろ人間は道具を用いる事で行動と結果の間を省略することで文明を発展させてきたのだ。新たな道具の確立を喜んで受け入れて、それを前提とした何かを生み出すものが次の時代を作る。
 日本はスマホにしろインターネットにしろ、最初期にその普及に抵抗したが故に時代の進化に出遅れ、その結果新時代を担う=稼げる企業、産業の成長が妨げられ経済的に零落した。
 AIという革命の時代の最後のピースにおいてまた同じ過ちを起こすのは止めて欲しいと願うばかりだが、まぁ歴史は繰り返すだろう。
 便利な道具は、一度普及が始まると人は抗えないのだ。何故ならそれを使うか否かで大きな力の差が生まれるから。もうこのグローバル社会では鎖国は出来ないのだ。

絵師の役割

 紡績業が機械に乗っ取られたように、絵もまたAIによってその生産活動の場を奪われるだろう。
 だが、それでも絵師の役割が無くなることは無いはずだ。
 何故なら絵と衣料には明確な違いがある。即ち、絵というのは芸術であり、表現の一種であるということだ。

 衣料に求められる要素は、まず第一に温度の調節機能である。そして次点に自己表現だ。シベリアで水着を着たり砂漠でコートを着る人は、まぁ居ないとは言わないが極々少数だろう。
 翻って絵に求められる要素は一つは情報の説明力だ。或いは自己表現だ。
 絵はその性質がそもそも芸術であることもあり、自己表現、いわばデザインや感情の表現の手段という要素が強い。今でこそ色んな挿絵や広告に用いられるようになったが、それだけでは決してないのだ。
 故に当然だがものそれ自体の完成度より誰が描いたかが重要な事が幾らでもある。その人にしか描けない絵も、幾らでもある。
 絵単体で見たら上手くないくせのある絵だけど、物凄く味のある絵を描く人気絵師さんも沢山いらっしゃる。
 残念ながら、工業製品的な絵はいずれ駆逐されるだろう。そういった絵は抑えるべきポイントが明確且つ需要がはっきりしているから描きやすいのかもしれない。いや、これに関してはマジで推測でしかないので異論は大いに受け付けるが。
 一方でAIの先をいけるようなセンスのある絵を描くというのも難易度が高いだろう。絵の世界は全然分からないが、そういうのは努力だけで到達できない領域なんだろうなと勝手に思っている。
 だが、そのどちらでも無い絵、自分が描いたことに意味がある、自分にしか描けない絵というのも、絵の世界にはあるのではないだろうか。
 それに必要なのはおそらく、人との繋がりか、深い内省。そのどちらも絵とは直接は関わりのない技能であり人によっては容易ではないことなのかもしれないが、抵抗をするよりそれらの技能を伸ばす手段を考えた方が建設的なのではないかと、外野から勝手に思っている所存です。


余談:私がAIを嫌いな理由

 ここからは余談だが、最初に述べた様に正直個人的な感情としてはAIは嫌いだ。
 機械化、工業化、システム化、合理化、ソフト化。
 ありとあらゆる方法で人は思考と行動の空洞化を爆速で進めてきているのが現代だ。そのスピードが速すぎて、そして当たり前になりすぎて、自分達が何を省略しているのかさえ分からずに突っ走っているのが現代だ。
 工業的なものならまだいい。それらは画一的に前提条件を揃えられるから。だがそれが人の絡む社会や組織、常識、倫理というものになると、前提条件も価値基準も揃えられない。
 環境は変わる。人の多様性は不可侵。ならば社会や常識というものは流動的なものであるはずなのに、機械と同じように空洞化されている。
 現時点でさえその綻びが各所に出ているのに、更に思考を省略させるAIが現れたら、更に考える労力を省ける快感を人々が知ってしまったら、もっとその綻びが広がり大きな過ちへと繋がる気がする。
 具体的に何かまでは勿論、分からないけど。

 だが、まぁ。
 繰り返し本文で言っていたように、AIの普及は止まらない。一度始まったが最後、ブレーキはきかないのだ。
 その前提の中で自分に何が出来るかを考えるしかないのである。

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