合理を超えた曖昧な純粋さ

 俺は酷い人間だ。或いは冷たい、打算的な人間だ。
 人を、それは見知らぬ人から友人果ては親まで、あらゆる関係の人との関係性を計算している。せずにはいられない。
 この人は自分にどんな利益をもたらしてくれるのか。自分は相手にどんな利益を提供できるのか。
 その利益とは単に金銭的な物に限らない。自他の感情的な利害、居心地が良いとか面倒くさいとか云ったものも含んでだ。
 そうやって計算せずにはいられないのだ。常にもはや自動的にと言っていい程、無意識に計算してしまう。
 勿論それはイコール「自分に利益をもたらさなくなった人とは即縁を切る」という訳ではない。
 だがそれは「付き合いでフォローするのはここまでかな」といった感じの計算であることは否定のしようがない。

 これはもう、多分一生変えられないだろうとは思う。そこまで無理して変えたいとも思っていない。
 我ながら薄情な人間だと思う。
 ただこれも恐らく理由があってのことだ。HSEなこともあり色んな事に気付き過ぎて、ある程度撤退ラインを定めておかないと気を使って誰かのためになりすぎて都合の良い人間になってしまう恐れがあるからだ。そしてその果てに相手にも同じレベルの気遣いを求め、裏切られた気持ちをぶつけるようになる。
 そんな姿を母に見ているので、あぁはなりたくないと割と早い段階から考えるようになった。無論これほど言語化出来ていたわけではないが、この性格は少なくとも中学生くらいには固まっていた記憶がある。

 そんな自身の利己的な部分を時々見下げ果てる時も多々ある。俺が自分を好きになれない理由の一つでもある。
 現実の他の人はどうなのだろうか。俺は現実では俺の人生、俺の主観しか体験できないから本当の所皆がどうなのか、イマイチ想像がつかない。
 皆も案外俺と同じなのだろうか。それともこんな利己的で打算的な人間なんてクズだと思うのだろうか。
 俺が読んできた物語ではどちらも居た。俺同様徹頭徹尾計算することから逃れられない人間も居れば、曖昧な感情のまま迷う人間もいた。
 だからきっと、現実でもそんなもんで、もっと言うとグラデーションと言うか、そういう感じの曖昧なのが当たり前なのかなと推測する。

 ただ、まぁ。
 こういう打算的な思考を他人に否定されるのは、それはまた少し反論したくなる。
 大抵の場合は誰もが同じように損得勘定をしていて、それを意識的にやっているか無意識的にやっているかの差でしかないんじゃないか、と。
 自分の感情や思考を理解出来てない方が偉いのか、と。
 こんな俺を否定出来るのはガチの聖人君主か、計算の上で人情を優先する所まで行きつけた人かのどちらかだけで、きっとそんな人たちはその難しさを理解しているからこそ、否定しては来ないと思う。どうでもいいが。

 まぁ取り合えず、俺はそんな人間だ。
 別に直接的な利害だけに限らないとはいえ、人間関係においても明確に損切りのラインがあると考えている。薄情で、利己的で、打算的だ。
 そして俺は引きこもりだ。特に引きこもりながら内省をずっと繰り返しているタイプの引きこもりだ。
 それはつまり、俺がここ数年で最も向き合ってきた人間は、長い付き合いの人間は自分自身という事だ。
 それ故にどうしても自分自身の体験や思考を一般化しがちだ。
 多くの人と触れ合って居ないが故に経験が偏り、自分自身の体験や考えのウェイトをどうしても重く起きがちになってしまう。
 だからやっぱり、「どうなのだろうか。イマイチ想像がつかない。」とか言っていたがあれは嘘だ。
 正確には「意識的か無意識的かの差でしかないと思っている」で、「だが誤っている危険性が高いから断定しないよう戒めている」だ。

 俺は誰もが俺と同じように人間関係を計算して、時に損切りするものだと思っている。
 だから、逆の立場に立って自分自身が損切りされるような厄介者になりつつあると思ったら、居ても立っても居られなくなる。
 俺は、誰かに気を使われるような、面倒な、厄介な人として見られるのが怖い。
 俺自身が内心、「付き合いだからしゃーなし相手するか」と感じながら仲良くできる人間だから。
 本当は損切りしつつも、「良い人」または「普通の人」であるために笑い合える人間だから。
 そしてそれを煩わしく感じて、なんか損をしている気分になる人間だから。
 相手にそれを感じさせているかもしれないというのが、堪らなく怖い。

 実際のところは、大抵の人はもう少しその線引きが曖昧で、俺が思っているよりかは猶予のあるものなのだろうと推測しつつも。
 実際のところは少々自己評価が低すぎるだけで、俺という人間への上で多めに見てもらえる範疇で収まる程度の至らなさの時も多いのだろうなと推測しつつも。
 実際のところは、一瞬面倒くせぇなと思っても暫くすると普通に良い関係に戻っていることもあるし、自分自身でも良くあることだと体験しつつも。

 堪らなく怖いのだ。
 俺自身いつも、もっと付き合いの長さとかで人情補正みたいなのがかかって幾らでも損切りのラインは変わっている。
 だが自分だったら損切りするボーダーラインの最も早い段階を一回でも超えると、怖くて怖くて堪らなくなる。
 自分自身の人情補正みたいなのを限りなく0だと計算して、一回でも損切りされて当然だと思うと、もう体が竦んで動けなくなる。
 そして自分から、距離を取る。逃げる。

 どうしても自分自身が、付き合うに値する人間だと思えないのだ。
 実利的な価値を示し続けない限り、時間を割いてもらうに値する人間だと思えないのだ。
 自分自身の対応と照らし合わせても流石に極端だと分かっていても、限りなく0であると計算せざるを得ないのだ。
 理由は、単純だ。
 期待を裏切られたくないから。
 良い関係だと思ってたのに、内心微妙な奴だと思われてたなんて後から知りたくないから。
 だから過敏に反応して、自己防衛する。それが恐怖だ。

 それ故に自分の人生を振り返ると、基本的に俺は最初人に期待しない。
 常にいずれ切れる縁だと心構えている。
 そして俺が諦めて、実際一度縁が途切れたと思った後にまた繋がって、やっとその縁を少しだけ信じられるようになる。
 俺はそんなひねくれ者なのだ。

 29年生きてきて、まぁもっと前から理解しているが、いい加減それが極端に過ぎると言うのは理解している。
 でもまぁ、今更これがどうにかなる気はしない。
 どころか、引きこもった結果一層悪化しているとも自覚している。
 内省を繰り返し過ぎたせいで自分自身の心の仕組みの曖昧な余地がかなり減ってしまい、自動的にその分析を他人に適応することで勝手に相手のことを分かった気になって下に見ることも増えた。
 それが合っているかに関わらず、自分の中での計算の精度が上がり、より計算の説得力があがり、よりシビアに計算するようになった。
 損切りされた、時間を使うに値しないと振り落とされた経験の数が更に多くなり、許されてたかもしれない関係から逃げた経験の数が更に増えた。
 間違いなく、悪化しているのだろう。

 だからこそ、俺は憧れる。
 自分が持たないものに。手に入れられないものに。
 打算を超える、損得で言えば明確に損だと分かっていて尚、関わりたいと思い思われる人間関係に。
 人間関係だけじゃない。同じことが夢とか目標にも同じことが言える。
 そういった、損得勘定を超えた純粋さに、合理性を超えた純粋さに憧れる。
 それこそが人の、最も純粋な思いだと憧れ焦がれる。

 俺が好きになる物語の主人公達はいつもそうだ。
 明らかに非合理な選択を、その純粋さ故に背負い込んで、当然のように苦しみ、血反吐を吐きながら足掻いて、その思いを貫き通す。
 特にそれを自覚しながらも、合理と感情で感情を選ぶような主人公だと猛烈に痺れる。悶える。とんだ中二病だとは我ながら思うが。
 そしていつか自分もそうなりたいと、この歳になってまだ尚夢見ている。

 むしろ、ある意味近年の世の中の流れを見て余計にその思いは補強されているとも言える。
 「合理化」という言葉は、現代日本に於いて最早絶対正義とさえ言えるだろう。
 苦しい不景気を乗り越えるため、誰もが生存戦略として「合理化」や「効率化」を持て囃す。
 人情やしがらみを悪しきものだと断罪することで意趣返しをしている。
 まぁ、それも仕方ない。
 人情やしがらみというのはとても曖昧で、短時間では得られないものだ。
 曖昧というのは再現性が低いということであり、時間がかかるということは熟成させる余裕が必要ということだ。
 今の日本人に、再現性の低いものを得るために多くの時間を費やす余裕のある人は少ない。
 そんな自分が手に入れようもないもののせいで自分の利益が損なわれるなんて、生存競争において受け入れられるわけがない。
 故に、誰も彼もが再現性が高く、短期的に結果を出せる「合理化」や「効率化」を持て囃す。

 皆分かっているはずなのだ。
 長期的に見れば人間の情の、曖昧な部分が無くなっていくと殺伐として生きづらくなると。現にそうなっていると。
 だが、そんな事を言っている場合じゃない。生存競争なのだ。
 誇張なく、ミスれば食いっぱぐれて生を失いかねないという強迫観念を、沢山の人が持っている。俺を含めて。

 だが、俺は同時にこうも思う。合理化や効率化の先に何がある、と。
 仕事に於いて、人材としての競争相手はもう機械であるという時代に足を踏み入れていると思う。
 急速に世の中の仕事で機械で代用可能なものが増えていっている。
 AIによる文章や絵の精度も上がってきた。
 シンギュラリティ的なものがいつ来るかは諸説あり、それを論ずるだけの知識は俺には無い。だがやはり言われた仕事をこなすだけなら機械でいいと言う時代が来るのは時間の問題だという確信が、俺の中にはある。
 合理化と効率化。ついでに言うとマニュアル化による脱属人化。
 的確に、素早く、正確に、無駄なく。
 それを人が幾ら突き詰めたところでヒューマンエラーは付きものだ。機械に勝ちようがあろうか。俺は無いと思う。

 そのいずれ来るだろう未来において、人間の仕事とはなんだろうか。
 それはフィジカルな仕事、機械を管理する仕事、クリエイティビティーな仕事。しかも、それらは単純なものではダメだ。高度に専門的だったり複雑だったりで一般化出来ないレベルのものしか必要とされないと思う。
 だからむしろ、どちらかというと多く生き残るのは感情労働だろう。
 介護やマッサージ、葬儀屋、テレアポみたいな人と人との触れ合いだから感情的に得られるものがある職種。機械だとどうにも収まりが悪い職種は生き残ると思う。

 因みに蛇足だが、これもAIが成り代われるという説もあるが、俺はそうは思わない。
 幾ら人工知能が発達しようと成り代われぬ、満たせぬ欲求はある。
 何故なら人の意思や感情は元来他者によって直接操作し得ぬものであり、一方AIのプログラムは他者によって直接設定されるものだからだ。
 人間は手に入らないものを欲しがる。人の心は中々手に入らない、思い通りにならないからこそ人は他者との繋がりを求める。
 勿論感情労働だって仕事であるから、AI同様予め利用者の心を受け入れるよう設定されているようなものだが、殆どの人はそこまでは同一視出来ない。
 でなければ今も、仕事でやっている人に受け入れられる事で誤認して喜ぶような人間はもっと少ないだろう。
 AIの登場の有無に関わらず、その数に変化は無いと考える。

 閑話休題。
 そして最後に、最も今後増えていくだろうと思うのが極めて「非合理」であることを楽しむコンテンツだ。
 具体的に言うと、「人間臭い非合理さや愚かさ、だらしなさを売りにした人柄勝負のストリーマーやインフルエンサー」だ。
 現実世界の殆どが整備され尽くして遊びが少なくなり、その息苦しさから逃れるために曖昧な人間らしさを欲しがる、という段階。
 まぁこれは今のところ唱えている人を俺は見たことが無い、俺の直感というよりむしろ願いに近い予測であり、ついでに言うと俺が生きている間に兆候が出始めるんじゃないかレベルの先の予測だが。少なくとも10年やそこらではメジャーになることは無いと思う。次の次の次くらいの予測だが。

 まぁそんなだから、世の中の大半を占めている他の誰かが出来る仕事というのは、これからドンドン機械に取って代わられていくと思う。
 本当の意味で自分にしか出来ない仕事が出来ている人なんてほんの一握りだ。殆どの人は誰かの要求を実現させることで飯を食っている。それは悪ではない。
 そして要求を実現させることも、それどころか曖昧な要望を明確な指示に置き換えることも大概機械の方が優秀になるのであれば、大半の仕事、特にホワイトカラーは人の仕事でなくなっていくだろう。そしてそれもきっと、悪ではない。

 人が仕事を失い機械に置き換わるということは、別に供給量が減少するということと同義ではない。人が生み出す必要がある供給量が減り、人の需要自体は依然満たされるようになる。
 人は、何かを生み出すことが命を持続させるための必要条件でなくなる。労働というくびきから解放されるのではないだろうか。
 そうなると、働くと言うのは必要に迫られてやるものではなくなる。自分の欲求のために「敢えて」やるものになるだろう。
 働くと言うのは、当然お金だけが目的の全てではない。社会に貢献しているという実感も得られるものとして非常に重要なものだ。働く必要が無くなっても全人類が働かなくなるわけではない。
 まぁそう単純に物事は動かないだろうが、大きな流れとしてはそっちに流れると、流れて欲しいと思っている。


 まぁ久しぶりにnoteを書いて何を書きたかったかと言うと、詰まる所俺は合理を超えた曖昧な純粋さに憧れ焦がれているという話だ。
 その純粋さに憧れるのは今俺自身が持ちあわせていないからで、御大層な未来予測も結局は俺の感覚が正しいと思いたいから理由を後付けしているに過ぎない。
 別に俺の一般化が、未来予測が合っていようがいまいが、どうでも良いのだ。
 ただただ、俺のこの愚かしさが、弱さが、浅ましさが許されて欲しい。この餓えが満たされる奇跡が欲しい。

 そんな自嘲に満ちた、情けない欲望を文字列に塗りたくっただけなのである。

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