正義と戦争

 戦争は悪であるべきだ。

 そこに反論の余地は無いと、俺は思う。
 だが、戦争が本当に悪であるのか自体は、一考の余地が残っているとも思う。

 俺にとって戦争とは、第二次世界大戦やウクライナのことではない。
 戦争とは、「コードギアス 反逆のルルーシュ」や「機動戦士ガンダムシリーズ」といったアニメか、「Mount & Blade2」や「Crusader KingsIII」といったゲームだ。
 幸いにして、俺にとっては戦争とは現実のものではなく、架空のものだ。本当に、幸福なことに。
 今回のこの記事だって、俺の争いについての思索に大きく関与したコードギアスを今見返しているから、ふと思い立って書いているに過ぎない。
 そんな薄っぺらい戦争と正義観だ。

 繰り返すが、俺は国と国との戦争行為を肯定するつもりは一切無い。
 例えどのような理由、大義名分があろうと、仕掛けた方が圧倒的に悪いし、止めない双方が悪い。戦争なんてゲームの中で十分だ。リアルでやるもんじゃない。
 ただ、ギアスを見ていてやはり思うのは、争い自体を否定することは出来ないということ。

 ”争いの無い世界”

 それはともすればとても素晴らしい響きに感じられる魅力的な言葉だ。
 だが、俺にはとてもうすら寒く、おぞましい言葉に思える。

 どうやったら争いが無くなるのだろう。
 少なくとも現代では、その答えはたった二種類に絞られている。

・争いにならない程戦力に大きな差を付け抑え込む
・人々を均質化し、そもそも不満を持たないよう教育する

 人は違う。
 生まれ持った才能や家庭の事情、積んできた経験と出会った人。
 何十億の人がそれぞれ似ていたり違っていたりする望みを持ち、似ていたり違っていたりするものを嫌がる。
 誰も不満を持たない世界など、少なくとも俺の想像力では無理難題にしか思えない。
 唯一方法があるとすれば、それは人間の均質化だ。同じような家庭環境、成長過程、未来の描き方を用意し走らせ、はみ出たものを徹底的に叩く。唯一絶対の思想を強要し、疑問を抱かせない。
 統治者崇拝などによって、人類が何度も試みてきた、現代でも未だ使われている手法だ。
 お隣の大陸や、日本において。

 まぁ、日本のそれは典型的な例と比べると、確かに余程マシではあるだろう。
 ただ旧来の学校へ行きいい大学に行き大きい会社に永久就職といったレールを用意し、それ以外の道を走ろうとする人をバカにし、成功するまでヤバイ人扱いし村八分にする風潮は、善意による均質化と言えていたのだろう。
 最近はもう、良いか悪いかはさて置き、かなり崩れているが。

 因みに前者の「争いにならない程戦力に大きな差を付け抑え込む」については言うまでもないが、その最も分かりやすい例は核爆弾だ。

 もっとミクロに、国家ではなく個人レベルで考えてみよう。
 占領された国の人たちがレジスタンス活動をするのは悪なのか。
 無関係な人を巻き込むのは悪だろう。ただ政府や正規軍人を攻撃することは、そうと言い切れないとも思う。例えその中で軍人を殺そうと。
 レジスタンス活動を否定するという事は、一切の不満を主張するなということだ。それぞれが持つ意思を貫くことを否定するということだ。
 そして強大な占領国に対抗するため、同志を集めレジスタンス組織を作るのもまた、自然な帰結だ。
 人の最も強い能力は数だ。数を同じ目的に集結させることだ。
 どうしても譲れない願いを通すには、数が必要になる。そしてすぐ、事が大きくなる。例えその願いが、妹を守るという小さな願いだとしても。

 争いを否定することは出来ない。
 人は違っていて、そしてそれぞれがそれぞれの望みを追い求める中で、利害の対立するもの同士の闘争は付きものだ。
 争いを否定するには、個人の意思を否定せざるを得ない。少なくとも僕らの文化レベルでは。
 話し合いの解決とは、片方が折れる事だ。
 互いに譲れないものを賭けて対立しているのに、言葉だけでそれを捨てろというのか。場合によっては命を賭してまで守りたいもの、通したい意思がある。それすら否定されるべきではない。

 だが、だがだ。
 それでも戦争はいけない。
 上位者が、意思無きものを強制し、或いは騙し、意思を捻じ曲げてまで巻き込んだ挙句命を失わせるのは悪だ。悪であらねばならない。
 命を無理に奪うことが何故悪なのか。当然だ。それは取り返しのつかないことだからだ。その後に続いたであろう相手の意思を全部無かったことにし、その一切の機会が取り返しがつかなくなるからだ。
 己の信念を賭けて軍人が争い、命を失うのは良い。彼らもまた、譲れないもののために命を賭けているのだから。賭けに乗せた以上、失われるのもまた自身の一つの選択の結果だ。それは尊ばれるべきだと俺は思う。
 だが戦争は違う。大局的には戦争が国民の利益になるかもしれない。だが往々にしてその因果関係をしっかりと理解出来る国民は少ない。理解出来ないまま、首脳部が説明責任を果たさぬまま、「お前らには分からんだろうが必要だから命を捨てろ」というのは、やはり彼らの意思と決断を曲げている。己の意思で命を賭けぬまま命を失わせる行為は、やはり悪であるべきだ。
 だから本来は戦争の意味が理解出来るもの同士が、さながら騎士の決闘のように展開されるのが戦争の理想形だと考える。
 だが現実には不可能だ。数の暴力というのは有無を言わせぬものだ。有りか無しかの議論を無にするものだ。譲れぬものをかけて戦う以上、そして銃によって練度の低い兵士でさえ大きな火力を持つことが可能となってしまった以上、持ちうる数を可能な限り出さずには戦えないのが近代以降の戦争だ。
 そのためには理解出来ぬものを巻き込まざるを得ない。強制し、騙し、洗脳して国家総動員するのが最も効果的なことは否めないのだ。
 その絶妙なバランスを取るのが政治で、シビリアンコントロールというものだ。それでも、戦う意思のない人を一切巻き込まずになんて不可能だ。

 結局のところそうなのだ。
 何故命を奪う事が悪なのか。戦争が悪なのか。
 その理由は個々人の意思の尊重に集結する。
 例え愚かな選択であろうと、それを否定してはいけない。
 賢い選択が大抵の場合うまく行く。だが愚かな選択の中からは極稀に飛躍が生まれる。賢い選択を続けても、緩やかな衰退からは逃れられない。日本を含む、今の先進国のように。
 先の想像できる賢い選択だけではいけない。先の見えない愚かな選択も一定数許容されなければ、全体としての発展は無い。愚かな選択に伴う失敗をフォロー出来る事こそが豊かさというものだと俺は思う。失敗しても取り返しがつくことこそが豊かさである一方で、失敗しても唯一どうしようもなく取り返しがつかないのが命というものだ。だから命は尊いとされる。
 まぁ、実はもっと簡単なのかもしれない。単に俺にとって最も大事なものが自らの意思だから、大事だと思いたいし、そう考えるのだろう。その論理を否定されることは歓迎するが、決断だけは絶対不可侵のものとしたい。それだけなのかもしれない。

 でも、まぁ。
 正直戦争は楽しい。闘争は楽しい。
 自分の要求を通すために沢山の命と、家名と、誇りを賭けて戦場を駆け巡り、娘を遠くの国に嫁がせて同盟を結び、暗殺の計画を立てるのは楽しい。
 M&B2やCK3(冒頭で挙げた、中世風戦略シミュレーションゲーム)をやっていると成程と思う。
 徴募兵、というか平民なんて雑草みたいに生えてくるものに思えてくる。効率よく税や兵を集めるために内政するのであって、必要があればむしり取るだけだ。
 子供が平民と結婚するなんて以ての外だ。結婚を通じての家の繋がりを得る機会は非常に大事だ。それを無駄にするなんて言語道断だ。
 ゲームだからうまくより顕著に表現されているという部分もあるだろうが、実際昔の貴族はこんな感覚だったのだろうなと思う。平民なんてモブ、というか数字でしかなかった。
 どうせ平民なんて大した教育も受けてないから見るに値しない。そんな暇なんてない。他の貴族の同盟というか、家の繋がりがあまりにも複雑過ぎて、その先の利害とかの情報量が多すぎるのだ。農民の蜂起とか反乱とか起こると、素で「平民風情が余計なことをするな」と思えてくる。
 そして戦争をやったとしても、その場で死なない限り基本的に金を払えば釈放される。自分自身のリスクは存外高くない。平民が幾ら死のうが、自分の領地を増やすために数字が減るだけだ。減った兵数はまた時間が経てば生えてくる。

 M&B2やCK3は面白い。是非皆さんも興味があればやってみて欲しい。貴族の感覚を味わえる(笑)
 そうでなくても、戦争は面白い。銃で撃ちあうのは面白い。魔王を倒すのは面白い。敵MOBを殺してアイテムを集める(略奪する)のは面白い。実に、世の中が自分を中心に回っている気がする。
 でも、まぁ。
 本当にこんなのゲームで十分だ。リアルでやるもんじゃない。
 賭けて失うのは0と1のデータだけでいい。
 リアルでなんて金も賭けたくない。
 リアルで賭けるのは、せいぜい本当に自分が目指す夢に、人生を賭けるくらいだ。それも、とてつもなく怖いけどね。

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