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悩みつらつら

 もう何度繰り返しただろうか。
 一向にアウトプットの進まない自分にヤキモキするのは。

 何かを作ろうとして、その出来に満足できず途中で放り投げてしまうなんて、よくある話だ。
 動画編集にしろHiÐΞにしろ、すべきことは分かっているのに動けない。

 俺はこの後の人生をどうやって生きて行けばいいのだろうか。
 大層なことを考えて、多分それはこれからの社会で一線級に役に立つレベルのモノだと思う。そしてそれを言語化して説明する能力もそれなりに高いレベルのものだと思う。
 多分、秀でている部分に関しては世界レベルとは言わずとも、かなり有能な人材のつもりなのだ。
 ただ、まぁ結局のところ尖り過ぎというか、他の能力が低すぎるのだ。
 自己管理能力や生活力がわりと致命的に欠落しているし、クリエイティブの才能も低い。低いと言うよりかは堪え性が無くて上達しない。人や社会の大きな問題には滅茶苦茶関心があるが、具体的な物やサービスで世界を楽にとか言われても全然気が乗らない。自信が無くてすぐ逃げる。逃げ癖が付きすぎている。

 多分、社会学者とか哲学者とか、そういう大局的視点においての有識者に師事出来たのなら色々道は拓けるのだろう。
 多分、身の回りの事とかスケジュール管理とか、そういうサポートをしてくれる信頼できる人が居れば色々と道は拓けるのだろう。
 でも所詮絵にかいた餅だ。
 俺は大学を中退した。そういった学者先生的生活の仕方へのルートは捨ててしまったのだ。そもそも確からしさが重視されるアカデミックな生き方は合わないしね。
 学者ではなくとなると、結局のところ知名度が命だ。知名度がないと肩書なしにはサポートなんてして貰えない。知名度を得るには積み重ねしかない。noteを書いてHiÐΞを書いて動画をアップして、バズらせて知名度を得るしかない。そうしてなんとか有識者の視界に割り込んで、引き上げてもらうしかないと思っていた。
 でもそれすら一人じゃ出来ない。逃げてばかりだ。

 社会問題に取り組む仕事とかを探したこともある。
 ただ当然と言うかなんというか、あるのは大抵「雇用される側」の求人だ。前線で決まった労働時間指示された仕事をこなす求人だ。
 それは無理なんだよ。そういった使いやすい人材というには自己管理能力が低く逃げ癖がある。不安定な人材なんだ。
 その代わり考えて提案する仕事なら出来るつもりだ。俺だって働けるなら働きたいんだよ。
 でもさ、結局そんなの誰だって同じだ。自分は指示されるより指示する側に立ちたいと思うし、自分にはその能力があると思っている。そんな奴らと俺が違うと証明するには実績が必要だが、足りない。逃げる。
 申し訳ないけど、こんなにも周囲がバカに思えるのに、でもバカにも違いが分かるように説明するには理解して貰わないといけない知識量と思考量が多すぎて萎える。
 本当はシンプルなんだ。

人間の一番の力は数。
正しさの優位性は数。絶対的なものじゃない。
だったら大勢を敵にまわさない範囲で、都合の良いように世界を解釈すればいい。(無論そのバランス感覚を持つには知識と思考量が必要)

人は未知を怖がって、だから変化を嫌い蔑ろにされるのに抵抗する。
それを非合理な感情と切り捨てたら、行き着く先はディストピア。
道理と感情の狭間で生きる事こそ人間らしい生き方。

今までは物が足りなかったから、お金の価値が高かった。
物が足りて貧富の差が少なくなり「平和」になったから、お金至上主義な資本主義は役目を終えつつある。
生きづらさの根っこはその時代の変化を感じ取っていることに起因するケースが多い。

 そんな感じだ。
 でもこれをバカにも分かるように体系化するには、色んな理論が複雑に関連しあっててどこから説明を始めればいいのか分からなくなる。
 HiÐΞの執筆が進まないのはそのせいだ。HiÐΞはこれを体系化して纏めようと思ってたのに、全然糸口が定まらない。
 その糸口を探ろうとしたYouTube事業部のニート哲学は動画編集で毎度詰まる。

 なぁ、これは俺がまだ足りて無いのか? 体系化して解説できてないのに言語化と説明が得意って言っちゃダメなのか?
 それが最初から出来てて当然なら、哲学書ってのはもっと読みやすいと思うんだが。
 でもだからといって分かる人にだけ分かる書き方じゃ不十分なんだよ。俺の考えは「現代だからこそやっと社会の半分くらいの人には啓蒙できるはずだ」、なんだから。知識や思索が足りてない人にも分かるように書かなくちゃならない。
 そして詰まる。
 ならパトロンや師事出来る人を探すように、今はもう分かる人にだけ分かればいいやってするのか?
 一応それがこのnoteの役割のつもりではある。
 ある人にお願いしてニート哲学のロゴを作ってもらった。それをnoteの画像設定に居れたら一気に読まれる量が増えた(30~40→70)。これもまた一つ大きな前進ではあるが、それでもまだ色々足りないだろう。

 俺だって働きたいんだよ。それは本心だ。
 それでもヒキニートをやってるのはやっぱり、俺には労働者が無理だからだ。長時間労働は精神がもたないし、働く時間が決まっていてもそれに体調を合わせられない。そしてそれに罪悪感を感じてドンドン後ろめたさが爆増し破裂して逃げる。
 歯車としてはあまりにも不安定で、使い物にならないのだ。
 それを矯正しようとした結果が今なのだ。メンタルを崩して引きこもったのだ。もうそこの矯正は断念せざるを得ない。そこを無理に矯正することも、自分の信念を曲げてまで道具に徹することも、多分実際は不可能ではない。だがそれをやると確実に角を矯めて牛を殺すことになる。その確信がある。

 俺が力を発揮できるのはおそらく、俺自身が誰かに支えてもらえる環境だ。
 欠如した部分を誰かに補って貰って、考えたことを他人に実現して貰えるポジションだ。
 企業で言えば部長以上だ。或いは文壇かだ。
 でもどうやってそこに行けばいい? ヒキニートで実績も無い奴が、労働者のステップをスキップして、しかもコツコツ実績を積むこともせず、尚且つ金も使わず飛び込むルートはあるのか? 無いんだよ。
 そりゃそうだ。そこを容易にスキップできるなら、誰だってそうする。
 だから誰かに見出してもらえるような幸運を願いつつ、またずっと人事を尽くさず天命を待っている。
 望外の幸運なんて無いのだ。俺にとっての幸運とは結局のところ、自分が行動してたまに望む結果が得られる。空ぶらなかったという類のものでしかない。

 本当に嫌になる。
 使い勝手が悪すぎるのだこの身体(おれ)は。
 さっさとデリートして別キャラでやり直したくなる。これはなんというか、死にたいというのともまた少し違う感覚だ。まさに、スティックの接触がイカレてまともにマリオを出来なくなったコントローラーを買い替えたい、というのと同じ感覚だ。
 まぁ俺は極端にしても、誰だって自分の心と体すら思い通りに動かせない経験はいくらでもあると思う。況や他人をや、だ。他人は思い通りになんてならないし、だからこそ面白いというのも分かる。

 望外の幸運、か。成功者はよく「自分は幸運だった。でも幸運は我武者羅にやってたら意外と引き寄せられる」みたいなことを言う。
 そう言う人は多いし、多分、そうなんだと思う。
 でもさ、俺は多分我武者羅に頑張る、行動するってことを知らない人間なんだよ。
 何をやるにも理屈が通ってないとモチベーションが途切れるし、自信が無いからすぐに足を止める。満足いかなければ投げ出すし、兎にも角にも精神的体力が少なくて息切れして逃げ出す。
 一つの事を信じて脇目も振らずに取り組み続ける。あぁそうさ、そんな経験は無い。29年生きてきて一度も覚えが無い。思考を止めるのは空想の世界に浸っている時だけだ。
 そして、経験の無い領域と言うのは怖い。そうした方が良いのだろうと何度も思いつつも出来ない。理性による制御を手放すのが恐ろしい。どうしたらその精神状態に辿り着けるのか理解出来ないし、考えようとすると頭が真っ白になる。
 それを人によっては、「本気になってないからだ。本気になったら自然と体が先に動く」という。はっきり言って俺はこの理論は嫌いだ。わりとガチ目の苛立ちが湧いてくる。
 つまりなんだ、俺がTRPGを仕事にしたいと願ったことも、自身の哲学を共有することで日本の未来を軟着陸させたいと願っていることも、その思いが足りないと否定するのか。何度自分で半端じゃないかと疑い直してもやっぱりこの想いは、熱量は嘘じゃないと定めたこの願いを、俺の方が間違っているというのか。それはお前らが未知への恐怖心をなんとなく乗り越えられた経験を、うまく言語化出来ていないだけだろう。それを想いの大小という測れないもので説明した気になっているだけだろう。なのに俺を否定するのか。自分が正しい、だって自分は成功しているのだから、とでも言うのか。
 もし俺が間違っていて、まだ想いが足りないというのであればどうやって増幅するのかまで説明出来ないのであれば無意味だ。言語化不足を否定によって誤魔化しているだけに過ぎないと思う。
 だからきっと、必要なのは想いを増幅する理論ではなく、理性によるリミッターを外す方法論なのだと思う。それに対する恐怖心を緩和する理論なのだと思う。
 だが何度考えてもその答えは見つからない。
 毎度「こんな不出来なものに取り組み続けるのに心がもたない」「納得がいかないものに取り組み続けるのに心がもたない」と逃げてしまう。
 無理に続けようとすると頭が真っ白になって手足が震えてくる。その感情の根源は不安や恐怖だ。
 根源が不安や恐怖なら、やっぱり必要なのは自信なのだろう。これが間違っていないと信じられる心なのだろう。そしてそれが俺には無い。
 漸化式は分かっているのに、a1が定まらないのだ。
 結局のところ、いつも自信が無くて動けない。自らのポテンシャルは多少信じられても、それを遂行できる自信が何時まで経っても皆無なのだ。
 ひきこもって思索を重ねて、これだけ考え抜いてもやはりこの自信の無さ、というより自分不信とも言える問題は解決しない。当然だ。自信は成功体験、そしてそのための行動によってのみ保障されるものなのだから。
 何度も行動しようとした。そろそろ頭の中の整理も終わって、生活保護によって何とか食っていくことは保障されているのだから、環境は整ったはずだ、と。
 でも何回やっても何回やってもエアーマンが倒せない。これだけ環境が整ってきているにも関わらず、また逃げる。逃げる。逃げる。失敗体験が積み重なる。自分を責めないようにと目を逸らしていても、自覚するともうダメだ。苛立ちと失望と焦りと不信感が固まりとなって押し寄せてくる。
 間に合わなかった。俺は祖母に「色々あったけど今は一人前に生きているよ」と伝えられなかった。伝えられぬまま、逝ってしまった。謝ることしか出来なかった。父方の祖父母もいい歳だ。両親ですらもう50をとっくに過ぎている。それぞれ色んな病気を抱えていて健康とは言い切れない。俺自身ですらもう29だ。これまでの不摂生が蓄積していて長生きは出来ないだろう。別に長生きはしたくないからそれは良い。でも、でも時間は待ってくれないのだ。
 いつになったら自分で飯を食えるんだ。いつになったら世間に胸を張れるんだ。いつになったら自分に胸を張れるんだ。
 無理なのか、やっぱり無理なのか。やっぱり何も成し遂げられず、誰の物語にも名前を残せず消えていくしかないのか。なのだとしたら、こんな世界に生きる価値は無い。無かったことになりたい。
 やっぱり無理なのか。一人では何も出来ず、にも拘らず他人を信頼することも出来ない俺はやっぱり詰んでいるのか。

 こうやって、情けなさと悔しさを、右小指でエンターに叩きつける事しか出来ないのか。

 あぁ、もし明日自分が死ぬと分かったなら、色々諦めが付いて楽だろうに。ちょっぴりの悔しさと、沢山の清々しさと安堵と共に消えることが出来るだろうに。
 でもやっぱり自分で死を選ぶほどの意気地も無いから、こうやってまた有り得もしない望外の幸運を願う。

 誰か俺を雇ってくれ。俺をサポートして俺が思考と執筆だけに専念するだけで世の中に還元できるポジションに取り立ててくれ。
 ハッ、情けなくて笑えて来るね。望外の望みなんてありやしないのに。

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