建設的な議論

たとえ話


コカ・コーラ ゼロ:好き ペプシ:好きじゃない ドクペ:意味不明
ランニング:素晴らしい 掃き掃除:下賤な仕事


コカ・コーラ ゼロ:ふつう ペプシ:ふつう ドクペ:好き
ランニング:大嫌い 掃き掃除:苦も無い

男:今日は結構歩いたね。
女:そうだね。少し喉乾いたかも。

貼り紙:コーラをおひとつ差し上げます。コカ・コーラ ゼロ、ペプシ、ドクペからお選びいただけます。

男:お、一つコーラをくれるってさ。コカ・コーラ ゼロを貰って二人で分けようか。
女:え、コップないし分けるのはちょっと……。それに私ドクペの方が好きだし。
男:んーならやめとく?
女:男くん、さっきあんまり好きじゃないペプシ間違って買ったって言ってたじゃん。ここのゼロコーラあげるからペプシ頂戴よ。
男:え、なんで?間違ったとはいえ僕が買ったものなんだから今は関係ないじゃん。分ければいいものを嫌がってるのは女ちゃんなんだし。
女:あ、見て。貼り紙に続きがある。

貼り紙:もし1kmのランニングか会議室の掃き掃除をしていただければどれか一種類のコーラを二本差し上げます。

男:良かった。これで平等に一本ずつ貰えるね。じゃあ走ろうか!
女:待って、私走るの大っ嫌いなんだけど。やるなら掃き掃除でいいじゃん。
男:何を言ってるんだい? 掃き掃除なんて誰でも出来るような仕事を僕たちがやるべきじゃないよ。それにランニングというのは僕たち自身を健康にしてくれるものさ。まさしく一石二鳥じゃないか!
女:健康って言われても私太く短くというか、今の楽しさを大事にしたい方だし……
男:そんなの間違ってるよ。死ぬと何も出来なくなるんだよ? 健康は誰にとっても何よりも大事なものなんだ。
女:それでもランニングは嫌なの。コーラはゼロコーラでもいいからランニングはやめにしない?
男:えー…… なんでゼロコーラで妥協した感じになっているんだい? そもそもドクペなんて関東でしか売ってないものを好んで飲むって恥ずかしいからやめた方が良いと思うんだけど。
女:はぁ……。男くんのペプシを私が貰って男くんがコーラを貰うじゃダメなの?
男:そんなの不公平だよ。僕のペプシはお金を払って得たものなんだから貰い物のコーラと等価値じゃない。そこまで言うなら君は自家用車を持っているんだから自分で買いに行けばいいじゃないか。
女:…………
男:だからほら、ここはランニングをしてゼロコーラを貰うのが一番いいよ! 一本ずつ平等に貰えるし、汗を流した後の最高に美味しいコーラを飲めるんだから!
女:はいはい。

ランニング後

男:ふぅ、走った後のゼロコーラは美味しいね! どうだい? 身体に調子も良くなるし、君もゼロコーラ自体は嫌いじゃないんだろう?
女:ソウデスネ

議論をするために必要なこと

 どうだろう、実に建設的な議論と最善な結論が得られたたとえ話だったのではないだろうか。

 議論が好きだ、話し合いは大事だという人の中には、一定数「男」のような人がいる。
 「男」のような人というのは具体的に言うと議論や話し合いというのは双方の妥協案を探ること、妥協案ということはある程度は自分が譲るべき余地が必ずあるということを理解していない人のことだ。
 そして何故そういう人たちが話し合いを好むかというと、とことん話せば自分の正しさを最終的には相手が理解すると信じているからだ。相手の理解が足りておらず、自分の価値観に及べていないから、それさえ教えれば自分と同じ意見に必ずなると思っているから、あんなにも自信満々なのだ。
 では何故自分の正しさと相手の及ばなさを信じられるかと言うと、実は、自分が譲る必要があるということを理解したくないからだ。
 僕はそう考察している。

 「理解していない」というのと、「理解したくない」というのは似ているようで違う。
 人の心は矛盾を嫌う。もし自分が何かを譲らなければならない、或いは諦めなければならないと自覚しているにも関わらず、理由なく我が儘を言うのは心の矛盾を招き罪悪感や引け目といった負の感情を生み出す。
 だからその負の感情を生み出さないための安易な方法として、何かしらの理由を作り出すという方法と、そもそも矛盾を自覚しないという方法の2種類がある。
 即ち「車を持っている=裕福だから元々不公平」という理由を作り出す方法と、「自分ではなく相手の理解が足りてないのが悪いのだから自分が譲る必要は無い」と考え自覚しないという方法の2種類である。

 真っ当な意見として、であるならば譲る必要性を認識した上で、譲ればいい。落としどころを探ればいい。というものがあるだろう。
 至極、道理である。が、案外これは簡単ではない。
 譲る、といえば何やら良い感じの言葉だが、端的に言えば自分が持っている物や手に入る可能性のあったものを捨てるという意味である。現状や想定から損をする選択肢を選ぶという意味である。
 勿論「譲る」という表現が使用される大抵の場合においては、その選択はメリットとセットであることが多い。席を譲ることでおばあちゃんの笑顔と自己満足と他者からの評価が得られる。細部で譲歩することで相手の同意を引き出し大きな利権を得る。
 特に議論の落としどころにおける「譲る」というのは、自分に取っては価値が低く相手にとっては価値の高い物を相手に譲り、その逆を得るという意味だ。
 即ち、何が自分にとって重要で何が重要でないか、同様に相手はどうなのかを理解する必要があるということである。

 勿論そんなこと、改めて説明するまでもないと思われるだろう。
 そして相手にとって大事な争点を探るのが交渉の難しいところだと。
 だが今回俺が難しいといったのは、相手よりむしろ自分にとって大事なものを知ることの方だ。

 自分は何が好きか、嫌いか。どんなことが得意か、苦手か。何を大事にして、何はどうでもいいか。
 当然そんなの誰だって知ってると思うかもしれない。
 ゼロコーラが好きでドクペが嫌い。運動が得意で掃除が苦手。健康や平等さが大事でどうでも良いことなんて無い。
 実に素晴らしい。
 だがそういったはっきりとしたもの以外はどうだろうか。お茶はどのお茶が好き? 紙の書類整理とエクセルのデータ処理なら?
 好きでも嫌いでも無い。得意でも不得意でも無いことの方が大抵の人は多くて、でも明確じゃないとはいえそこにはグラデーションのようにぼんやりとした優劣がある。
 或いは家族と仕事のように、どちらも大事ということもあるかもしれない。
 「私にとってどっちも大事で、そんなの比べられないよ!」
 とても綺麗な言葉ではあるが、正直議論をする場合においては言葉通りお話にならない。
 議論というのは互いの利害を擦り合わせ、互いの譲歩によって双方が総合的な利益を得るためのものだと俺は考える。定量化して比較が出来ないなら損得勘定が出来ないということ。つまり、議論が出来ないということだ。

 だから、ある意味では自分に取っての軽重が分かっている物の数が、そのまま交渉の手札の多さと言えるのだ。
 だがその項目というのは無限にあって、尚且つ時々でその軽重も不変ではない。予め全ての手札を用意しておくということは不可能なのだ。
 故に、予め用意すべきものは評価基準である。評価基準、即ち価値観を常に更新しておいて、それを用いて必要に応じて交渉カードの軽重を計る。
 だが評価基準に据えられる程輪郭のはっきりした価値観を持つことはそう簡単なことでは無いのだ。

 特にもし、自分が追いつめられている時はより一層難しい。
 追いつめられいる時は、そもそも僅かな損失さえ許容出来ない。脳のリソースが足りず自己分析が足りないので、後どれくらい失うと取り返しがつかなくなるのかも全然分からない。大して問題にならない譲歩から、蟻の一穴のように全てが(このすべてもどこからどこを指しているか分からない)崩れ落ちるかもしれないという恐怖に囚われてしまう。
 この譲れない一線というのもまた難しいものだ。譲れない一線が十本とあると自分の切れるカードの幅が相応に削れていく。その吟味のためにも自分としっかり向き合う必要がある。

 自分にとっての軽重を計ることが出来て、自分が譲れない一線を理解し、損得勘定が出来るようになる前準備というのは、自分と向き合う時間がたっぷりと必要となるのだ。
 そして自分と向き合う時間は、常にアイデンティティや実存の問題を傍に従えている。致命的なリスクを被る可能性が常に付き合うものなのだ。
 それはそんなに、簡単なことでは無い。

 だから人は、人は理解しないままいることを好む。でも、その弱さは、愚かさは、責められるべきものだとは思わない。
 その選択を否定することは出来ない。その選択をしてきた判断基準もまた、相手の人生の丸ごとの経験に基づくものだからだ。他人の人生経験を否定はできない。
 ただ愚かだな、好きになれないと思うだけだ。


男「今度どこ行こうか?」
女「いや、もういいっす」

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