2022年のまとめ

 早いもので、もうあと一日で2022年も終わる。 

 これを書いてからもう一年経ったという事だ。
 振り返って上の記事を見てみると、その当時の精神状態を思い出すことが出来た。
 中々効果的だったので、今年も書いておこうと思う。


光陰矢の如し

 もう一年経ったのか。それが一番の感想だ。ま、凡庸だな。
 引きこもって、noteを書いて、分かりやすい結果の出ないままあれこれ足掻き続け。外から見れば何も変化しないままに一年が終わろうとしている。
 未だ無職のままだし、生活習慣もグチャグチャだし、親との関係も断ったままだし、The NEETって感じだ。

 だが翻って内を見ると、まぁ随分と変わったものだなと思う。
 一年前の記事を読んで、一年前の俺はまだそんな所に居たのか、と少し唖然とした。
 それと同時に、俺も来るところまで来てしまったなと、少し可笑しくなった。
 この一年の変化が俺にとって、世間にとって望ましいものだったのかは、今はまだ分からない。

傲慢

 この一年で最も変化したこと、それは俺が傲慢になったことだろう。
 世の中の大概の人は自分よりも愚かで、洞察が足りなくて、思慮が浅くて、俺と同じように弱い。
 自分と他人の見解が違った時、自分の考えを揺らがさずに平然と他者の意見を流すようになったのだ。
 心の中に湧いた「いや」「でも」を飲み込み、内心では相手に「まぁその程度の深さが普通なんだからそれ以上を求めるのは酷だし、論破に意味はないよね」とか思いながら曖昧な笑みで「まぁ」と流すことが増えた。
 昔は俺の考え、疑問や違和感は間違っていて、誰もがそれを乗り越えて生きているものだと思っていた。俺は理解が遅いのだと思っていた。だが、違うのだ。大抵の人はそれらの疑問や違和感に向き合ってなど居ない。偉い人が考えて出した答えをそのままインストールして、生まれた疑問や違和感には「考えてもキリが無い」と目を逸らして生きている。そしてそんな自分の心さえ目を逸らしていることに、気付かないように苦心して生きている。

 そういうものだとそのまま受け止めること。モヤモヤを晴らすだけの生き方。
 俺は好きになれない。だが、同時にそれは責められるべきことではないとも思う。
 向き合おうとすれば俺みたいになりかねないのだ。愚かさは生きていくために必要なものなのだ。

 まぁ、こんな風に思うようになった。
 一言で言えば侮っているのだ。「まぁ無理だよね」と見下しているのだ。冷笑ではなく慈愛の笑みのつもりだが、冷笑が混じっていないとは自分でも言い切れない。
 そして俺は、そんな認識の仕方を選択した。もう自分が間違っていて相手が正しいという前提で思考を突き詰めることに疲れたのだ。慢心してはならないが、大概の場合相手の方が浅いと言う結論に至ることの方が多かったのだ。
 そして多分、それは普通の事なのだと思う。誰もがきっと、自分の方が正しいと思いながら生きているのだろう。自分の方が間違っているという前提で生きている人の方が少なく、生きづらいのだろう。そしてそれが当たり前過ぎて、罪悪感すら感じずに生きていられているだけなのだろう。まだ確信は無いが、そうなのだと思いたい。自分は罪悪感を抱えたまま生きているだけマシなのだと、信じたい。

甘え

 もう一つ重大な変化として、俺の自罰思考の根っこが分かった。
 甘えてると言われたくなくて、自分を追い込まなければ認めてもらえないという思考が強かったのだ。
 それ故に健康面でもメンタル面でも生活面でも、あらゆる思考パターンで自罰的に、自分が悪いのだと考えることが定着してしまったのだ。

 まぁ未だに、ある程度自罰的なスタンスは必要だと思ってはいる。
 俺のように自分は思慮深いと思い上がって人の話を素直に聞かない人間は、当然の如く人には好かれづらい。マイナス補正がかかる。それをプラスにするには、高い目標と比べて自分を下げ足掻き続けているというスタンスが必要だ。それによって多少は反感は応援に上塗り出来ると思う。
 ただ、それで十分だと思った方が都合がいい。必要なだけ自らを戒め続けるべきだが、必要以上に自罰的である意味は無い。そう思ってもそろそろ良さそうだと思えれば、少し肩が軽くなった。

活動

 傲慢と甘え、この二つは間違いなく俺の人生の中での転機となる程の大転換点だろう。
 それを踏まえて現時点(2022/12/30)での今後の活動方針について、今年一年も振り返りながら書き留めておく。

 今年一年の活動で真っ先に上がるのは自立訓練施設に通ったことだろう。
 必ずしも当初の目的、起床時間の安定に関しては達成されていないが、外との繋がりやメンタル維持の安定化装置としては非常に機能している。来年も、まだ暫くはお世話になるだろう。
 あとはニーチェを調べたのも今年の前半か。思索の結果に形を与えるのに非常に助けになった。
 ニー株に入ってYouTube事業部での活動も大きい。ニート哲学やニート先生など、幾つかの試みを彼らの手を借りて試した。
 引きこもり界隈でもCOMOLYさんや渋谷エールカフェさん、シアンさんといった方々と協力させてもらっている。今はまだ布石段階だが、今後に繋がる活動ではあったと思う。
 TRPGに関しては、まぁ今年は無理だったな。殆ど何もやれていない。
 あと蛇足ではあるが、PCを買い替えたのも今年の初めだ。スマホはボロボロで買い替えたいが資金が無い。

 仕事に関して、より正確に言えばサラリーマンになる事に関しては、もう完全に諦めている。というより興味が無いが正しいか。
 やだよ、んーなもん。俺に出来るわけねぇだろ。って感じ。
 消費するばかりで生産していない己への罪悪感と、日々生み出す側として働いている人々への敬意は忘れないよう自戒している。
 だからこそ、30年も消費豚であった重荷に見合うだけのものを、世に返さねばとも思っている。

 さて、次の活動方針だが、まだ纏まり切ってはいない。
 ので具体的なところはまた来年になるだろうが、「なんでなんでおじさん」とでも銘打ったものをやるつもりだ。

 紆余曲折はしてきているが、多分これがわりとゴールに近いのかなという予感はある。自分の持つ能力と、リソースを鑑みて。

雑感

 書くべき項目に関してはこんな所か。
 しかしやはり、一年というのは早いものだと思う。
 外から見たら何も変わっていなくて、でも内側は確かに大きな変化があって。わりと俗世離れしてるからwindowの向こうな距離感とはいえ、世界的にも戦争やら円安やらAIやらあーだこーだあって。
 大きく変わったなぁと思いつつも、最終的には変われなかった、結果を出せなかった自分への焦りと、そんなままで見送ることになった祖母への後悔が残る。
 確かに前へ進んではいるのだ。だが時はそれを待ってくれない。無情にも自分が、周囲が歳を取っていく。それが堪らなく怖いし、恐ろしい。焦る。だが、同時にこの焦りこそが人を人足らしめるのだろうなとも納得する。

人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか

 人の一生なぞ、大きな視点で見れば一瞬だ。瞬く間に生まれては消える儚いものである。下天がどうかはイマイチピンとは来ないけど、人類の歴史で見るだけでもそのスケールの小ささは思い知らされる。
 だが、それと同時に俺たちは今を生きている。過去は変えられないし、未来は見通せない。過去から学び未来を予測して、その時最善だと思う選択をし続けるしか無いのだ。過去通用した選択が今通用するとは限らないし、結果論は所詮結果論でしかない。
 敦盛は、果たして「人間なんて儚いもんなんだからやったもん勝ち」の精神なのだろうか。全文を知らないから正確には分からないが、「儚くとも、儚いからこそその一瞬一瞬を大事にしたいし、その煌めきに価値があるのだ」と受け取りたい。取り合えず、俺はそう解釈しておくことにする。

 本当に、一年が経つのは早い。体感的には、本当に学生時代の一年と同じ長さだと言うのが疑わしく思えるほどだ。それだけ、俺も老いたということだろう。
 ふと思ったのは、「なんで」「そんなわけ」「マジか」みたいな発見の多さが若さで、それらを「そういうもん」と流すようになるのが老いなのかなと思う。
 俺自身、ここ最近は特に無感動になっていっているが故の考察だ。新鮮さを感じる事が殆ど無い。人間関係も、思想も、娯楽も。最先端の技術すら、「ようやく今はこれが出来るところまで来たか」みたいな感想だ。YouTubeなどで見る言論家達の話だって、「あぁそういう論調ね」に留まることの方が断然多い。
 この思い上がりは自分自身にとっても危険だと理解しているのだが、どうにも制御出来ないものだ。きっと行動と実体験こそがそこを突破する鍵なのだろうが、なんとも儘ならぬ。

 まぁ、そんなところか。
 今年のnoteは、これまで。

 良いお年を。

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