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友達が全員既婚者になった日

私事ですが、先日、学生時代からの友達で今でも定期的に会う面々の中で、私を除き唯一独身だった子が入籍しました。

さて私はどんな気持ちかと言うと、なぜかなんとも清々しい。

負け惜しみなのか?苦し紛れの虚勢か?と、私自身、私に何度も問うたが、やっぱりポジティブな気持ちになっているようで。
せっかくなので、これを分解していきたい。


人と違うアタシ

こんなふうに書くのも恥ずかしい限りだが、没個性に対する異常なまでの恐怖心があるからか、皆既婚!我独身!という状況にさえ自分の個性を見出そうとしてしまっている節がある気がする。

私と似た環境で育ってきた友人たちがみな当たり前のように結婚していく中で、私だけが独身である。言ってしまえば仲間外れだ。
みな、人生のパートナーがいる。旦那という存在がいて、彼女らは妻という役割を担っており、人生のあらゆる局面で2人で話し合い、2人で生きている。
私は違う。
自分がどう生きるか自分で決め、ミスったとしても誰にも連帯責任的なご迷惑はおかけしない。自分のケツは自分で拭かなければならない。


日本の全体像はどうであれ、私周辺の世界では「既婚」が「普通」。
であれば私の生き方は「邪道」であって、個性的で、特別である。

いつからか少数派に属することが快感になった私にとって、このふんわりとしたひとりぼっちはかなり心地がいい。

正直、書いていて結構恥ずかしい。だってこれ、厨二病みたいじゃない。
勘違い要素も強いし。
でもこの勘違いたちが私に気持ちよさをもたらしてくれていることは事実なので、放っておいてもらえたら。



巣に戻る

これはいわゆる甘えの話なのだが、
SNSなどの飛び道具を駆使していろんな人と会ってまぁまぁ刺激的な生活をしている私なので(注:これはこれで好きでやっている)、学生時代からの友人に会う時はなんんんにも考えないいわゆる脳死の状態で会いたい、というのがある。
まさに「気の置けない仲」である。

普段活発に飛び回っている鳥が、たまには「そこに行けば安心して羽を休められる」とわかっている巣に戻りたくなるような。

が、仮にこの時、友人が恋に悩んでいたらどうだろう。
もしそうなったら吐きたければ吐きたいだけ吐いてほしいし、一緒に考えたい気持ちはあれど、自分のコンディションによっては話を変えたくなってしまう瞬間が、私はある。

そもそも、恋の悩みはなかなかに堂々巡りであることが多い。(気がする)
相手と自分の問題に見せかけて、自分自身の問題であることも多い。(気がする)

でも友達の立場で「それはあなたの問題でしょう」と踏み込むのは気が引ける。
よって、数多の言葉を呑み込んで「ただ聴く」になってしまうことがほとんどだ。

要は、ぜひ私の友人たちには恋愛を卒業し結婚という形でできるだけ安定していてもらいたいというエゴがあるわけだ。
結婚したらしたでステージの違う悩みがあるだろうに、「結婚=安定」でしょ?という押し付けがある。
本当に勝手だと思う。



恋バナの飽き

なんだか最近、人と会って話す時のテーマとして「楽しい」と感じるテーマの中に「恋バナ」が入ってこなくなった感じがある。(あんなに大好きだったのに)

学生の頃は恋バナがメインで、あとは誰かの悪口や美容の話をちょっとするくらいのもの。
社会人になってからも数年間は恋バナは相変わらず盛り上がるテーマだったが、もうすでにこの頃から仕事の話を面白いと感じるようになってきていた。

そして今、社会人7年目になり、年齢も31歳、おそらく恋バナに飽きてしまったのだろう。
もっと面白い話がこの世界にはたくさんあるので、私が「あ〜誰かと話したい」と思う時に顔が浮かぶのはいつも、仕事やら趣味やら何かしらの活動に精を出している人たちだ。夢中になっていること、頑張っていること、ハマっていること、直面している人生課題、野望、哲学や美学の話なんかを聞きたい。掘りたい。

もちろん、恋バナとはいえ「愛とは何か」とかはまぁまぁ面白い。
恋愛工学的なものを題材に、これまでの経験を照らし合わせて議論する、みたいな話だったらきっと興味を持てそう。
でもそれはきっと一般的に言う「恋バナ」ではないんだろうと思うし、そういった話ができる友人・知人は数少ない。

既婚者は恋バナをしない。
恋バナをしたそうな人、聞いて欲しそうな人がいない。これはとても楽である。

私はむしろ、彼女らが見ている世界の話を聞きたい。
家を買うとか、建てるとか、子どもがどうのとか、彼氏彼女が夫婦になるとどう変わるかとか、私の知らない世界の話をしてほしい。
もちろんそこに私は入れず、発言できないので価値提供は皆無なわけだが、私自身はとても楽しい。
(気を遣わせてしまっている可能性は大いにあるので、何割か増しで「楽しんでいる」と体現しているつもりである)



人生の連動

色々書いたが、結局これに尽きるなと思うのは、「人は人、自分は自分」と真に理解しつつあるということ。

「子どもたち」「生徒たち」とまとめられ、「みんなと同じ」を望み、多数派に属していることで安心していた過去。

親に連動して自分が存在している感じだった。
学校では、友達がどうであるかに連動していた。

でもそれはある程度仕方のないことのようにも思う。子どもは親に見捨てられたら生きていけないので、親の顔色を伺い、親の意向に沿おうとする。(もちろん親の顔色なんか伺わなくても見捨てられないと思えているのが健全だとは思う)
学校の中での友達の存在も然り。

要は、他者との境界線が曖昧だったんだろうと思う。

他者によって自分が変わってしまい、変えてしまっていた。

それが、大学生になり社会人になり複数のコミュニティに所属して連動先が増えることで一つ一つの連動性が減っていき、一人で過ごす時間も増え、気づけば「自分」の輪郭が見えてきた。

私は(孤立ではなく)独立した一つの個体であり、誰がどうであっても影響を受けてあげなくていいただ一つの人生を生きていて、私にとって「私が楽しいのか・悲しいのか」それだけが重要な局面がある、と認識できるまでになった。

誰がどうであっても、私はどうあってもいい。
誰にも連動しなくていい。

それがようやく腹の底から理解できてきたような気がする。
頭ではなく体がそれを覚えたというか。

だから皆既婚!我独身!という状況は「ふーん」だし、なんならちょっぴり特別な感じがする〜と能天気でいられるんだと思う。


焦り

「焦ってないのか」と言われること、たまにあります。

全然焦ってないです。

だって結婚しなかったらしなかったで、その時々で私は自分が楽しくいられる方法を考えて行動するだろうし、結婚だけが人生を楽しく生きる唯一の方法じゃないことくらいわかるし。

現に今人生が結構楽しいので。

今後結婚することもあるのかもしれないけど、それはそれで、その時の私が「こっちの方が楽しそう」と選んだってだけの話でしょうし。

31歳の女が「結婚!結婚!」って焦ってる様子をエンタメとして面白く思う人が一定数いるのでしょうから、たまにそうやって自虐して見せたりもするけど、実際全然焦ってないです。ごめんよ。

「今はパートナーがいるからそうやって余裕ぶっこけてるだけだ!」とか言われそうだけど、それもそうかもしれないし、もし別れたとしても「ちょっと今日は寂しいな」な夜に飲みに行ってくれる友達は男女問わずいるし、そうやって相手してもらえる人間である努力はこれまでちゃんとしてきたしこれからもしていくから、やっぱりどうなっても大丈夫だと思ってる。

もし私がいつか焦っていたら、あらまぁ、って一緒に笑ってやってください。笑


ちなみに冒頭、「学生時代からの友達で今でも定期的に会う面々の中で、私を除き唯一独身だった子が入籍しました」と書きましたが、この夫婦のキューピッドは私なのでした。いいことしたな〜

心からおめでとう。
全力で幸せでい続けて、いつまでも私に感謝し続けてください///



ではまた次回!

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