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空気は読むべきか。

発達障害において、何も考えない状態で空気を読むのは至難の業。(だと思っている。)

私は会話する時は、常に頭をフル回転して会話に挑んでいる。

ただ「そもそも空気ってそんなに読む必要があるの(読むべきなの)?」という原点に立ち返って考えてみようと思う。

考えるきっかけになったのは先日Twitterで行われていたスペース。

空気を読む=我慢である
自分は敢えて空気を読まない
空気を読め、と言う空気があるから
日本人は空気読みすぎ、外国では・・・

といった意見があった。

しかし、これらには大切な視点が抜けているのではないかと思う。

空気を読むべきかという問題を考える前に、まず整理したいのは、発達障害において、

「空気を読むべきかどうか」
「空気が読めなくて困っている」
全くの別問題である。

空気が読めなくて困っている方は、私なりの対処法がこちらにあるので、もしよかったらご覧ください。

今回は「空気読むべきか問題」について。

そもそも何のために空気を読むのか。

「それが集団のルールだから」「日本はそうだから」
は答えっぽいけど、正確な答えにはなっていない。特に個人個人が空気を読む読まないの問題においては、言葉足らずな気がする。

集団のルールや日本の見えない風習に従うのは、誰からも強制されていない。
「自分の選択」である。
空気を読みなさい!と言われても、空気を読むか読まないかは自分で選択することが出来る。
「信号を守りなさい!」という法律があるが、これだって守るかどうかは自分次第である。
(例えば、全く車の通らない見晴らしの良い交差点で、歩きで信号無視を一度もしたことない、という人の方が少ないのではないだろうか。
これだって法律をどう守るかを自分で決めていることになる。)

自分はそれが集団のルールだと思っているから
「日本では空気を読むことが一般的だと自分は思っているから
自分は空気を読むという選択をしているが正しい言い方ではないかと思う。

ではなぜルールや日本式に従う必要があると多くの人が考えているのか。

無意識であっても意識的であっても、空気を読むことが「結果的に自分の利益になる選択だから」。
だから敢えて空気を読むのではないかと思う。

例えば、飲み会で上司の話が長くても空気を壊すから「少し話が長いです」と言えないんじゃなくて、その上司のことが好きだから、自分が明日からも働きやすくいるために、ここは敢えてそういう発言をしないでおこう、といった具合に。
逆に、それよりも早く家に帰ることの方が大切だったら「早く帰りたいです」と言えばいい。
本来自分で選択していることである。

逆に空気を読まない場合でもあっても、それが利益になるからそうしている。
ここでの利益とは、会話や行動でストレスを抱えないということ。
空気を読んでストレスかかるぐらいなら、多少浮いてたとしても言いたいこと言った方が快適。

「相手と意見を交わした方が良いコミュニケーションだと思っているが、空気を読む同調圧力がある」という考えも、それを同調圧力と感じるかどうかは自分次第。

『自分の目的に合致していて、純粋にストレスないことやる』のが一番だと思う。

我慢してストレスが溜まるぐらいなら言いたいこと言えばいいし、
我慢するよりも波風立てるの方がストレスなら言わなければいい。

どちらが「自分にとって」ストレスかで判断する。
本来、誰からも強要されていない。

日本人的な空気を読む国民性は
「波風立てる方が不利益(ストレス)」と考える人が多いことに由来する。
生存戦略として「空気を読む」を戦略をとってきたのかもしれない。

何が言いたいかと言うと、
自分がストレスのない選択をすること。
空気を読むのも読まないのも、自分で選択した結果であることに『自覚的になること』の大切さ。

空気を読むことを我慢と捉えたり、日本じゃなければ、と外側に問題意識を置くのではなく、自分の目的や内側の選択を大切にすることではないかと思う。

他人に空気を読めと強要するのはNGだと思うけど、自分が空気読むかどうかは自分で決められたら、決めることに自覚を持てたらきっと素敵ですね。

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