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学びの多様性はどこにあるのか


#多様性を考える

うちの長男は自閉症スペクトラムです。昔でいうところのアスペルガー 症候群で、学習障害はないがこだわりが強く、1対1のコミュニケーションは問題ないが、集団生活が苦手である。誰かにこうしろああしろって言われるのがいやで、自分がやりたいことをやりたいタイミングでやる。彼の中には時間の概念がなく、決められたルーティンで動くことはできない。言い換えれば、彼はいつも自分の気持ちに正直で、その気持ちに従うことに何の疑問ももっていない。

好きなものはとことん追求するが、興味のないものには見向きもしない。そんな彼にとって、小学校の授業というのは苦痛でしかない。例えば大好きな理科の授業でも、虫眼鏡で太陽光をあつめて紙を燃やす、というような実験は日が暮れるまでやっていたいのに、45分の授業の中で、触りだけやってあとはみんなの意見を聞いて、というのが耐えられない。例えばそんなに好きじゃない社会でも、世界地図をみながらいろんな国や地域について知識を深めるのは好きだが、その時間を制限されるのが耐えられない。もっと知りたい、という気持ちを抑え込まなければならないことが、彼にとっては物凄く苦痛なのである。

本来、学ぶという行為は自由であるべき。学びたいものを、学びたいように学んで何が悪いのか。もちろん、集団に対して何かを教えるという行為を考えた時に、個々人の希望をすべて叶えるのは不可能で、どうしても誰かが定めた学習要項に沿って授業を提供することが必要となってくる。その押し付けがましい授業をちゃんと受けなければならないというのは、我が家の長男のようなタイプにとっては少し拷問じみている。そんな拷問に耐えられる人間をたくさん輩出したところで、この社会はどうにも変化していかないのではないかと、いささか心配にもなる。

憲法によって職業選択の自由は謳われているが、学習方法選択の自由は記載がない。義務教育の範疇で、誰でも平等に教育を受ける機会は与えられているが、その中に学びの多様性は存在しない。幼稚園、保育園、小学校、中学校。私立という選択肢を取れる子供は良いが、千葉県の片田舎ではそもそも私立小学校の選択肢がない。たまたま、同じ地域に住んでいる子供たちが集められた公立の小学校、中学校で学ぶしかない。もちろん、その環境においても多様性という言葉が用いられる。運動が得意な子もいれば、音楽が得意な子もいる。本が大好きな子もいれば、地図が好きな子もいる。とても絵が上手な子や、みんなに優しい子。日本人だけでなく外国人もいる。子供たちのいろんな面を鑑みて多様性といってはいるものの、その多様性とは、学校が提供する授業を問題なく受講できることができる、という前提の上に成り立っているように思える。前提条件がある時点で、それは多様性とは似て非なる物である。

とりわけ支援学級に在籍している、うちの長男のような子供たちは、多様性にカウントされる前に、集団の授業についていけない子供と認定される。通常学級でやっていることに対して、学習障害がある、あるいは情緒面で課題があるため、集団で授業を受けられる子供達から引き離なされる。長男が通っている小学校の支援学級における支援というのは、学習支援というよりも、生活面での支援に対する比重が大きい。どうにかして集団授業を受けられるように、支援学級の先生はあの手この手を使ってくる。

でも、本当にそれでいいのだろうか。集団での授業を受けられるようになることを目的とすることが正しいのだろうか。集団での授業が難しければ、個別指導という方法もある。多くの人がいる教室にいることが辛いのであれば、ひとりになれる場所でオンライン授業という方法もある。小学校で学ぶべき教科やその内容をしっかりと理解することができるのであれば、本来学び方はなんであれ良いはずではなかろうか。

多様性とは、いろんな種類や傾向のものがあること、変化に富むこと、という本来の意味に加え、互いに非常に異なる人や物の集まり、と定義される。本当に多様性を受け入れる社会になるためには、互いに非常に異なる人や物を知る、というだけでは不十分である。異なるからこそ必要なものをしっかりと提供できるところまでやって、はじめて多様性を受け入れていたことになると思う。今日本では、ようやく多様性という言葉が浸透してきたが、まだその本当の意味合いや、それに対してどうすれば良いのか、まで理解が進んでいないように思える。多様性を語る時、その主役になるのは大抵の場合マイノリティの人たちである。マジョリティの感覚で理解できないのは致し方ないとして、であれば、マイノリティはもっと声をあげるべきではなかろうか。マジョリティはその声をしっかりと聞き、今まで常識とされていたところに疑問を持ち、それぞれの幸せのために互いにできることをする。

本当の意味で多様性を受け入れる社会となるのであれば、明治時代からほぼコンセプトを変えていない日本の義務教育に関しても、考え直す必要があるように思う。とはいえ、それが変わるのを待っている間に、我が愛しの自閉症時は大人になってしまう。とりあえず、私にできることは何か。彼が通っている小学校、支援学級の先生方に協力を求め、大多数の児童と比べると非常に異なる我が子が、ただ居場所を確保するだけではなく、少しでも彼なりのアプローチで学べるように環境を整えてみようと思う。

正直、今の日本の公立小学校に、学びの多様性は存在しない。集団授業を受けられない子供たちを、やがて集団で授業が受けられるようにするためにサポートするための支援学級が存在するだけである。集団授業を正とすると、子供達の多様性を理解し、共存することは難しくなる。集団授業をあくまで一つの学習手段という位置づけにし、他の学習手段も選択できるようになれば、鰻登りで増えている支援学級数に変化が生じるのではないか。

なんてことを、自閉症の我が子と生きている日々の中で、考えている。


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