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いけせんと呼ばれた人

小学校5・6年生の時、私のクラスの担任は池田先生という若い男の先生だった。
みんなから「いけせん」と呼ばれ、生徒はもちろん保護者からも慕われていたと思う。

よく言っていた格言(?)は、「けじめをつけろ」と「やるときは思いっきりやれ」。
悪いことはなぁなぁにせず最後まで向き合ってくれて、今しかできないことは一緒になって楽しんでくれる人だった。

今でも覚えているのは、文化祭で段ボール迷路のお化け屋敷をやった時のこと。
迷路を作るための大量の段ボール集めを手伝ってくれ、下校時間を過ぎてもまだ最終仕上げをしたいと言う私達のために、教頭先生の許可を取って日が沈んでからも一緒に残って監督してくれた。
生徒の自主性を大事にして、口や手を出し過ぎることはせず、助けを求められたら応える。
尊敬すべき大人の姿を見せてもらっていたと思う。

教科書にはない性教育をしてくれたのもいけせんだった。
日本の性教育は本当に遅れていると、今だから分かる。
どうやって赤ちゃんができるのかを事細かに説明するのは、性教育の主な目的ではない。
異性の身体を知り、違いを尊重するということ。
自分の身体に起きる変化を知り、個人差があることを知り、第二次性徴期に備えること。自分の身体を守るためにどうすればよいのか。
きっとそれらを知ることが子供たちには必要なのだ。

あの頃は恥ずかしさが勝っていたが、大人になった今なら分かる。
大人が性について恥ずかしがったり隠そうとしたりする態度では、子どもを守れない。
あの時、いけせんが教科書からさらに踏み込んだ話をしてくれたというその姿勢が、大人になってからの私の意識を変えている。


卒業式当日、教室の黒板には生徒一人一人に向けたメッセージが書いてあった。泣きながら読んだそれを、私は今でも憶えている。

「一生懸命で努力家。池田より出来た人です。自信を持って突き進め!」

ひどく気分が落ち込んで自分を否定してしまいがちな時、ふと思い出すこの言葉に何度も救われた。

卒業後、大学生になってから、私はFacebookでいけせんと再会した。
お互い投稿にイイねしたり誕生日にメッセージを送る程度のやり取りしかしていなかったが、覚えていてくれることが嬉しかった。
………のだが、どうやらアカウントを乗っ取られてしまったらしく、いつの間にかFacebookアカウントは削除されていた。

そういうわけで、今となってはもういけせんと連絡を取る手段は無い。
まぁきっとどこかの小学校で、今も生徒達に真剣に向き合う先生をしてくれているだろう。

子どもにとって大きな影響力を持つ「学校」という場所に、あと2年したら息子も通うことになる。
私にとってのいけせんのような、息子にとって信頼できる先生がそこにいてくれたら嬉しい。


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