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秋風(10012字)

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旅×エッセイをテーマに掲げるウェブメディア「kikou」にいくつかの文章を寄稿している。「紀行」をローマ字で書いただけか、大丈夫なのかと思ったけれどなかなかファンがいるらしく、運営はおそろしく順調らしいから世の中はよく分からん。
編集長の長沢ブン太の本名は長沢文雄で、特に親しかったわけではないが大学のゼミが一緒だったものだから、編集長としての彼に世話になっている今も俺は普通に文雄と呼んでいる。
文雄は俺が書いたもの、書こうとするものをろくに読まないし考えない。読んでると言うが読まれたという実感が湧いたことはない。手応えがない、文章が直されたこともないし、ここを舞台にこういうことを書こうと思うなんて話をしても「いいんじゃない?」「書きたいように書いてよ」「面白そうだね」「興味深いね」としか言わない。本人なりに返事のバリエーションは増やそうと努力しているらしいが俺が求めているのはそういうことじゃない。もっと世間に文章が届くように、もっと文章が研ぎ澄まされるように、編集長と言うなら厳しい意見もメディアのモットーも容赦なく、どんどん俺にぶつけてほしい。
壁打ちしているみたいで嫌だ、何を書いてもただただまっすく跳ね返ってくる球を見るたび、おまえは試合に出ないから、おまえには相手がいないからって言われてるみたいな気がして仕方ない。
だけど俺の文章は文雄の作ったメディアの上でそれなり数(とは言え平均的な数)に読まれるし、うまく行けば拡散されたり、コメントで感想が書かれるわけだ。その上原稿料ももらえるのだから客観的に見て俺の嘆きが贅沢だってことは分かる。
「ほら、シェアされたりコメント書いてくれる人がいるんだから、記事の向こうにいる人の気持ちを第一に考えて、これからもどんどん書いていってくれよ」と文雄は言う。
違うの、俺は文雄の意見が欲しいの。文雄がどう思ってたか、文雄にとって価値があるのか、そういうことを知りたいの。
ここまで言えばさすがに女々しいというか、我ながら面倒くさいと思うから口に出す前に黙ってしまったけど、この、黙ってしまったっていう、この、これは、俺の成長だった。
俺が前の職場で居心地が悪くなったのも正当な評価とか仕事の意義とか切磋琢磨とかそういう、向上心が生み出す個人の葛藤を、みんな肯定すべきみたいな気持ちが原因だったと思ってる。
聞くところによると一文字あたり4円程度の計算で原稿料がもらえるのはかなり優遇されているらしい。ほかのライターもみんなその額で、単に文雄のメディアが儲かってるのか、昔のよしみで、俺に特別な情けをくれているかは分からない。多分どっちの要素もあるのだと思うが、いずれにせよ、ライターの経験がない俺に仕事をさせてもらえる上、特に厳しく苦痛になるような扱いを受けないという恵まれた環境を大事にしたいと思えるほどに俺は成長していた。
成長と言えば都合が良いようだが、実際は向上のために人に食らいつき吠えるのが面倒になるほど、気が弱くなっているだけとも言えた。


2/12
自分のことは心から滑稽だと思う。
文雄のメディアに寄稿するようになったきっかけもなんだかのらりくらりとしていて大人げなかった。
職もないし実家に帰るのもなんだし、とは言え職場に近いという理由で借りた部屋を引き払う日はとっくに決まっていて、もうなんか嫌だな、何がとは言えないが嫌だなと、いつも船にでも乗ってるような足腰ガッタガタみたいな気分になって酔いながらパソコンをパチパチ。カナダなら35歳まで取得できるという噂を頼りに、ワーキングホリデービザをとってとりあえず日本から逃亡しようと思って、今カナダにいる豊島という、やはりゼミで一緒だった友人に連絡を取ったら逆輸入みたいな感じで日本にいて日本のメディアの編集長をしている文雄が紹介された。
「もしよかったらカナダのことエッセイにしてよ」と言われたけれど、エッセイにしろと言われるとなんだか急に荷が重いというか、気分は逃亡だというのに越冬調査のために足にタグを付けられる鳥か何かになった気がして「わるいいけどそれはいいわ」と断ったと同時に、その、断るのに胆力を使いすぎたのか、ビザを申請するのも海外の長期滞在の準備をするのもいきなり面倒になって、豊島からのその後のメールもしばらく無視した。
豊島もエッセイ頼まれたんだろうな、海外転勤でカナダに行ったから普通に余裕なくて断ったってのが過去にあって、それで俺にお鉢が回ってきたんだろう、と思った。そんな、義理の尻拭いみたいなのに使われるのしんどい。もう会社とか行ってないのに、そういうのに付きまとわれるのはしんどい。
ああ社会性って一旦手放すとめちゃくちゃ簡単に手放す癖ができるんだなと妙に納得した31歳の初夏。
だからと行ってしがらみから解き放たれたという気持ちが強いわけではなく、勝ったのはどこの誰で何をやってるって名乗れない心細さ。
「カナダじゃないと書く意味ない?」と文雄にメールして、今思えば企画提案書のようなものを送った。30を過ぎて急に考えなしで無職になったおじさんの、先が分からない人生の旅路と、実際の旅をオーバーラップさせるというような、ありきたりと言えばありきたりの企画だった。しかしそれも今思えばという話で、俺にはなんだか自信があった。
文雄からの返信を待つ間、そんな泥臭いの望んでないんじゃないか、鼻息荒く感じなかっただろうか、自分を切り売りするような惨めな風に見えなかっただろうかといろいろ気を揉んだ。文雄のメディアを読んで読んで、読めば読むほど自分は的外れな提案をしてしまった、なんか場違いな気がするという思考が襲ってきた。
「良いと思うよ、何かかけたら送ってください」
どこに行くも何をするもない、取材費の話もない。
具体的なことを詰める前にこんな風だったから拍子抜けしたが、何となく何者でもない日からは脱せそうだと思って俺は喜んだ。


3/12
旅というのはなんだか照れ臭いし、2泊3日の小旅行というのもおかしい微妙な移動の記録。ふわふわと所在ないおじさんの、生まれてこの方忘れていたピュアな視線で綴られるエッセイは、我ながらなかなか面白いと思った。札幌、新潟、岐阜、神戸、長崎、沖縄。札幌から始めたゲストハウス巡りの記事はなかなか好評なようだったから、俺は次第に全県制覇するつもりになっていた。
最初に文雄に提出した企画提案書のようなものからイメージする文章とは大きくテイストが異なっているようだったが、文雄は何も言わなかった。
もっと悲壮感にまみれた視点の方が良いかもしれないとか、自虐的なキャラづくりをした方が良いかもしれないとかいろいろ考えて少しずつ自分なりに文に変化を持たせたつもりだけど、なかなか思い通りの文章にはならなかった。
努力はしている、大目に見てくれ、ライターとしては初心者だし、自分で自分の文体というヤツを獲得する過渡期なのだと言い訳した。
しかし、その言い訳が実際に口に出されることはなかった。文雄が何も言わないから。俺が納品した文章を読んでいるのかいないのか分からないまま、ありがとう、またよろしくという返事が返ってくるだけ。
そんな現状をどうにかしたいと考えていた折り、文雄と一緒に旅に出る企画が立ち上がった。石川県金沢市が舞台だった。新しいゲストハウスがあると文雄が教えてくれた。文雄の親戚がいる土地らしく、文雄のメディア(俺の記事)を見たその方がわざわざ教えてくれたそうだ。しばらく顔を見せていないしということで、文雄も足を運ぶことにしたらしい。文雄の方から俺を誘ってきたことが珍しく、俺は自分でも戸惑うくらいに舞い上がった。
ところが当日聞かされたことには、写真のモデルの女の子と一緒に大人のデートプランを紹介するみたいな企画だった。文雄が事前にこの手の連絡を怠るイメージはなかったから、俺はこの女の子と何かあったのだろうかと察した。
「ごめん、今回は普通のホテルで。3人分のベッドルームなかったんだ」と文雄が言う。
「別に俺は一人でゲストハウスでも良かったのに」
気を利かせたつもりで言ったが、文雄は少しショックを受けたような顔で「そういうわけにも」と曖昧に答えた。
何があったのかは知らないが、この謎の旅程には文雄の俺に対する信頼が伺えた。この子と文雄の間に何があったのか、好奇心が湧いたが、何となく文雄に頼られているような気配が漂っていて、それが嬉しかった。


4/12
ひがし茶屋街をぶらりと歩く。
俺とモデルの稗田さんが並んで歩くショットもあれば、俺の目線から見た彼女という設定で撮られた写真もある。撮ったのはすべて文雄。
文章の構成は一応俺が考えるから、俺目線のショットというのはほとんど俺が指定したものだった。俺と稗田さんの二人が写っている写真は彼女がアイディアを出したものがほとんど。文雄は、その位置だと看板が見えないからもう少し寄ってほしいとか、そういうことを言うだけだった。そういうことを繰り返しているうちに、文雄は俺のことをどんな目でも見ていない、ということが分かった。文雄はやはり俺に何事も期待していない。なぜか分かった。
それで俺が苛立っていると稗田さんは何も頓着しない様子で、それでいながら確実に俺のただでさえ過敏な神経を逆撫でしないやり方で巧みに黙ったりしゃべったりした。
「若いのにしっかりしてるよね」と言った瞬間、俺は自分がおじさんになったことを知った。若い頃おじさんやおばさんに何度そう言われたか分からない。ほんの少し話しただけで適当なこと言うなよと思った。今になってみて、あのおじさんやおばさんはこういう風に若い人の深いところを洞察して関心していたことを知った、なんてことはなかった。実際に自分が若い子を適当にほめるおじさんになったからこそ、何も分からず適当にほめていたことが分かった。だから彼女が一瞬不快そうな顔をしたのもしょうがないと思ったし「いや私、ぜんぜんしっかりしてないですよぉ」と言ったときも、そうかもしれないなと自然に思った。しっかりしてたらよく知らないおじさん二人と二泊の旅行になんてこない。「今日だって本当はゼミあるんですけどサボっちゃいました」と聞いてないことを言っている。ああなんだ、この子はただ、人の顔色を伺うのが上手なだけで、それでいくつか無難な対応を知っているだけで、しっかりしているわけでは全然ないのだ。


5/12
日が傾いてくる頃、文雄が「あらかた撮影終わったね」と言って、どこかに行きそうな素振りを見せた。「え、どこ行っちゃうんですか?」と稗田さんが聞いてしぶしぶ答えたのは、「ちょっと、にし茶屋街の方に」だった。
「え、じゃあ俺たちもそっち行くよ」と言えば、文雄がちょっと考えるような顔をする。稗田さんが「私たちはもう少しひがし茶屋街の方取材しないとじゃないですか?」と言ったのは、多分空気を読んだってことなんだろう。
しかし文雄を見送り雑踏の中に消えていくのを確認すると、彼女が俺のシャツを掴んで、「ちょっと後つけません?」と言う。その顔には少し媚びのようなものが含まれているようだった。ただし女のというよりは、少し打ち解けた人間に対する一般的な媚びだった。例えば新入社員が上司に向かって、パーソナルな部分を開示しようと努めるときの信頼の交換とでも言うべき顔。いやもっと幼稚で、例えば高校生が部活の先輩と早く打ち解け、同級生より一歩早くチーム内の地位を獲得しようとするような打算的な空気。こんな形でインスタントに作られる仲間意識と、少女と言っても良い年齢の女の子の悪巧みに従うことに若干の抵抗を感じたものの、前の会社でも幾度となくこんなやりとりを経てきたような気がして、なんだか懐かしくなり、恥ずかしくなり、何より文雄の動向が気になり、彼女の好奇心に従うことに決めた。


6/12
文雄がタクシーに乗ったので俺たちも後からタクシーに乗り込んで「前の車を追ってください」と言った。「なんかドラマみたいですね」と稗田さんが言うから俺は恥ずかしくなる。
10分も走らないうちに文雄が乗っているタクシーを見失ってしまう。後部座席の中央から、頭を寄せ合いずっと前方を眺めていたから、文雄のタクシーを見失う経緯はよく分かった。こちらが信号に捕まり、あちらが一つでも曲がれば、それなりに混んだ道路で車を追うのは困難極まる。
「すみませんお客さん、見失っちゃって」と言ったタクシーの運転手は恭しい声でこう言ったから、俺たちは「いえ、目的地は分かってるんで大丈夫です。にし茶屋街に向かってくれますか? たぶんそこで合流できると思うんで」と答えた。「あ、はい」と返事をした運転手の肩に漂ったがっかりから、この人も、ドラマみたいな追跡劇を満更でもない気持ちで楽しんでいたのかもしれないなと思った。思わず、稗田さんの顔を見ると彼女もこちらを向いていて、目が合うとなんだか無性におかしく、お互いにニヤリとした。彼女が仕組んだ仲間意識にはめられたような気がした。その感覚は嫌なものではなかった。むしろ30過ぎのおじさんにも関わらず大学生の女の子と友達のようになれていることに強い自信が湧き、下心が生じた。



7/12
文雄は背が高く目立つ。歩き方に擬音をつけるとしたら「のそのそ」がもっともふさわしい。走る姿は想像できない。背は高いが威圧感はなく、樹木のような印象がある。
そんな様子だから、にし茶屋街について、少し歩くとすぐに見つかる。のそのそと歩いている。冷たい秋風が吹く中ベージュのトレンチコートを着て、長髪を後ろで束ね、黒縁のメガネをかけて歩く文雄は遠目に見ると絵になった。オシャレだな、と思う俺が、文雄に比して耐え難いほどに冴えないということに思い当たる。俺は冴えないと知ると、ほとんど右腕にまとわりつくようにしている稗田さんは俺のことは人としても異性としてもまったく何とも思っていないからこそのこの距離感なのだということも分かる。
無害で無欲のように見える文雄が驚異に見える。心のどこかで文雄を侮っていたと知る。文雄に記事の意見を求めることができたのは、こいつは俺の面倒を見なければならないと考えていたからだし、同い年なのにはっきりある地位や立場の違いを埋めようとしたからだった。
惨めさがこみ上げて、背筋に恥ずかしさが走り、鼻毛のような自尊心が蒸発していく。
そこへ、俺の肩越しから文雄を見つめる彼女から雨降りの朝のような清々しいにおいが立ち上る。それが秋の、樹木や溶けかけた枯れ葉の甘い空気に吹かれて、最後に人工的な甘い匂いが残って文雄の元に駆けていく。その香りをまとう彼女に嫉妬する。そんな彼女に熱い視線を向けられる文雄に嫉妬する。二人とも秋が似合う。俺はタクシーの中で彼女と目が合ったときのことを思い出した。なぜ俺は一瞬でも自惚れることができたのか。なぜ俺は文雄を舐めた態度で見つめていられたのか。スタイルが良くて持ち物も洗練している男と比べて俺は、大きなメディアの編集長をしている男と比べて俺は、持ち前の美貌も、涼しい顔で何かを達成するほどの才能もなく、こうやって子どもの遊びに付き合って、あろうことか下心まで抱いて、期待通りにいかなくて落ち込む恥ずかしい生き物で、そりゃ、文雄にも、若い女の子にも相手にされないわ、と思った。



8/12
「ブン太さん、全然気付きませんね」と稗田さんが久々に口を開いたが、緊張からなのか興奮からなのか、少し喉のあたりで詰まっているように聞こえた。顔を見ると緊張でも興奮でもなく、彼女は笑いをこらえているのだった。
文雄は甘納豆の専門店に入っていく。もう見つかるつもりで店の前に立つと、狭い店内で長身と、それなりの巨体を持て余し居たたまれない様子の文雄が、小柄なおばさんや女子大生くらいの女の子たちに囲まれて、別の国に迷い込んでしまった巨人のように通路の端に目いっぱい身を寄せて、女性たちの頭の上からのぞき込むように、甘納豆を物色していた。甘納豆にしか興味がない様子の文雄はいかにも木偶の坊だと思ったが、俺は文雄をこんな風に見る癖を改めなければならなかった。
文雄の姿を見てクスクス笑う稗田さんは「あ、見つかりそう」と言って楽しそうに俺の腕を引いて数件先のコスメショップのようなところに入った。
金箔を埋め込んだ紙石鹸や顔パックが並ぶ店の中でテスターをもてあそびながら「この取材旅行、私すごく楽しみにしてたんですけど」と言った。
「私と、ブン太さん二人でやるものとばかり思ってました」
「悪かったね、俺が付いてきて」
俺だって俺と文雄で来ると思ってた、と言いたかった。
代わりにライターがいなきゃ取材にならないだろう、と言おうと思ったがライターとしての自信もないことに気付いて何も言えなかった。
稗田さんは俺の皮肉というか卑屈な発言には答えず、「普通女子大生に言い寄られたらそれなりにその気になりません?」と言う。雰囲気ではなく言葉ではっきりとメス的なことを言われると、その開けっぴろげさに辟易した。
写真のモデルになってそこそこ読まれるWEBメディアに顔を載せるくらいなのだから、これくらいの自信があるのは当たり前か。むしろ現代人の健全な自己肯定感というヤツを、この子はちゃんと持っているのだ。今の卑屈な俺には眩しすぎるようで、こみ上げてくる敗北を押し込めるようにして強い劣情が湧いてくる。この子を獲得して、自信をつけたいと思う。夜、固いベッドの上で、彼女の着ている複雑な服を一枚ずつ脱がしていく想像をする。
女に興味がなさそうな文雄に代わって、今日の夜は自分がこの子の相手をしようと強く誓う。
そこへ稗田さんが、金箔入りの蜜蝋ハンドクリームを細い指に擦り込みながら、低い声で「なんかブン太さん、女性恐怖症らしくて」と言ったから、途端にどこに着地点を見いだせば良いか分からなくなる。



9/12
甘納豆屋であれだけの女性の渦中にいながら女性恐怖症もクソもないもんだと思ったが、稗田さんが甘納豆屋の中にいる文雄を見て笑っていたのは、そういう事情を知っていたからかもしれないと思った。
もし彼女が言うことが本当なら、文雄は俺をボディーガードとして連れてきたのかもしれない。俺はこの若くて自信満々な彼女の魔の手から文雄の貞操を守る。そう思うと今の今まで抱いていた劣情が息を潜めて、彼女がまるで文雄という樹木を傷つける鳥のようだと思った。細い体で、美しくて、だけどくちばしを容赦なく文雄の体に突き刺す。文雄の体に住み着いている虫をうまそうに飲み干す。穴を抉っておいて、恩を着せるようなことを言うに違いないという思い込みが湧いてくる。だけどそんな同情を文雄が求めていないのは明らかで、俺はそれが悲しくなる。もっと文雄に友情を向けられたいと思う。その実、心のどこかでは、それなら俺はこの子を夜きちんと誘い切った方が、文雄のためにもなるんじゃないか? と考えてもいたのだから笑う。不愉快な大人はなんでもかんでも都合良い解釈をして、自分がしたいように事を進めるのがうまいと丁度彼女の年齢のときくらいに考えていたことを思い出した。自分がまさに不愉快な大人になっていた。驚くべきことに、そんな大人になったことが悲しくなかった。むしろ達成を感じていた。
「ブン太さん、小さい頃に性的虐待を受けたとかで。何か聞いてます? 大学の同級生なんですよね? 歳の離れたお姉さんとお姉さんのお友達にいたずらされてって言ってたんですけど」
もし本当なら可哀想ですよね、と言った彼女の顔は慈愛に満ちていたが、「でもあの歳で、純粋な女性経験が全くないってヤバくないですか?」と言った彼女は刺々しかった。「まあわかんなくもないですけど。目も合わせてくれないし、生きるの興味ないみたいな顔してるし、どこか闇深そうな感じはしますよね」
「闇」というのが女子大生ぽいなと思った。それも頭が悪く、高校ではあまり冴えなかった女子大生ぽい。それはそれで闇とは言わないまでも、傷がありそうだった。
俺は文雄の過去に関して、まあそんなこともあるかもしれないなあ、としか思わなかった。それほど衝撃的なことでもなく、姉がいない自分には羨みこそすれ、同情するようなことでもなかった。それはきっと俺の想像力が足りないからだし、文雄の姉とその友達というのを知らないからだし、性的に満ち足りていないからだった。
何より、それはきっと嘘だと思っていた。とにかく何かの都合で自分に取り入ろうとしてくる女性を傷つけずに遠ざけるには、幼い頃の心の傷が原因でと言うのが一番楽そうだ。それくらい投げやりなエピソードに見えたし、仮に本当だとしても、文雄がそんなエピソードを彼女に明かすわけがないと思った。姉がいるということすら嘘かもしれない。
彼女の素直さを思うとまだまだ若いなと思ったけれど、俺が文雄の何を知ってるのか。俺は俺の尺度で文雄の心底を読み切っている気がしているけれど、なんの根拠もない。根拠がないどころか、俺だって文雄の本心や心底を求めて、幾度となく騒ぎ立てたじゃないか。俺の文章に悪いところがあれば遠慮なく言って欲しいとか、もっとキャラクターみたいなものを作り込んだ方が良いかなとか、それはしつこくしつこく文雄の本当のところを探ろうとしてきたじゃないか。



10/12
文雄に友情を感じれば感じるほど、彼女のような女性を大事にして欲しいという気持ちも湧いた。稗田さんもまるきり文雄の話を信じているわけではなさそうだが、それでも俺よりは強く重く、彼の境遇を案じていることは分かった。しかし、文雄がこれ以上満たされるのを見て惨めな気持ちになるのが嫌だったし、文雄が得られるもののうち、一つくらいは俺が手に入れても良いはずだという気持ちにもなった。どうして文雄だけが苦もなく何もかも手に入れるんだ。強く望むでもない、むしろ遠ざけようとしていながらにして、彼に巡ってくる色々は、どうして彼を目指していくのだ。
「kikouって、旅の紀行じゃなくて、奇妙な行動って意味の奇行らしいですよ、本当は」
唐突に話題を換えたように聞こえたけれど、彼を取り巻く環境を思えば思うほど、奇行という言葉がしっかり食い込んで似合っていく。
「奇行?」
と俺は聞き直していた。そう言えば俺も、文雄を目指して奇行を働く人間の筆頭じゃないか、と考えながら。
文雄の、奇妙なものを見る目が思い出されるような気がした。俺が記事の意見を求めたり、文雄の考えを聞かせてほしいというようなことを言うと、どうしてそんなことを聞くんだ、という顔で俺のことを見ていることがある。
あの心細そうな顔を見ると、こちらはこちらで、どうしてお前はこんなに自信がないんだと思うけれど、あいつはあいつで、どうしてお前は俺に関わろうとするんだ、と思っているのかもしれない。
「みんな変なところ行ったり、変なことしたり、すごいなって思うんだよねって話してました。私からみたらブン太さんが一番変なんですけど。人の行動原理とかよく知らないみたいなんですよ。それでよく」の後はあまり耳に入らなかった。



11/12
店員が一度話しかけてきたきり一向に近寄ってこず、それどころか狭い店内で筒抜けの俺たちの話題を聞いただろうから、精神的に隔離しているようだった。
そんな雰囲気を察した俺たちは、どちらともなく店の出口に足を運んだ。
文雄はまた、すぐに見つかった。
「私思ったんですけど、ブン太さんってもしかして、男性が好きな人ですか?」
「え? それは知らないけど」
「なんか、私より山崎さんを見る目の方が熱いような」
「いや言い方がなんかおかしいよ」と俺は笑って言った。「大学の同級生だし、俺の方が親しいのは当たり前でしょ」そうは言ったものの、優越感はあった。
「でも、心の傷のこととか話してくれたし、私もけっこう付き合い長いですよ? 今日私全然相手されてないって気付いたけど」
それで自分に原因がある、ではなく相手が男性を好むと考える思考回路がすごいなと思った。でも、相手にされてないと感じたのは俺だけじゃなかったと思って何かが氷解した気がしたし、本当に稗田さんと打ち解けられた気がした。



12/12
このとき考えたんだ。
俺と稗田さんのこういう会話とか、文雄を追ってたこととか、俺が何を考えてたかとか、そういうの、丸ごと文雄に見せたらどうなるんだろう。
稗田さんはコツを教えてくれた。文雄は紀行ならぬ奇行を見たいのだ。
文雄に伝えたい気持ちがある。
愛だの情だのでは説明できない欲求が、秋風のごとく冷たくしつこく、お前の周りで踊っているのだということ。
そこに悪意はないのだということ。
ただこの案を稗田さんに伝えたとき、彼女の顔が綻ぶのを見て、下心は沸騰しそうだった。下心は悪意と違うよな?

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