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私が死のうと思ったのは

 この27年という短くは無い人生を生きてきて、何度も「いつ死んでも良いや」とか「死んでしまおうかな」と思ってきた絶賛うつ病療養中兼無職のこんな私であるが。
 今日になって「あの時は特にヤバかったな〜」と思い起こされるここ10年ほどの出来事がいくつかあるので、そのエピソードについて今日は語らせていただきたい。

1つめ : 大学院生時代の教授のせいで精神的に病む

 当時私が所属していた研究室の教授は、初老に差し掛かろうかという中年の男性教授だった。私が大学2年生の時に新しく採用されて教鞭を取りはじめた人で、担当していた電子工学の講義を聞く限りではとても理性的で温厚そうな教授に見えた。だから大学3年生になり所属研究室を決める時、私は話しやすそうな教授だなと辺りをつけて彼の研究室を希望し、希望通りに配属されることになった。

 しかして、その予想は180度裏切られる形となった。

 学部生の頃はまだ良かった。
 研究テーマは先輩からの引き継ぎに近い形で共同研究であったから、教授とのやり取りはほとんど当時お世話になった先輩が矢面に立ってくれていた。当時就職活動をするか、進学するかで悩んでいた私は、「就職活動でアピールできる実績が何もない」「今就職活動しても失敗するビジョンしか見えない」「無職になる」という焦りと恐怖からから、今思えば軽いうつ症状を引き起こしており、思考力の低下した頭で大学院へ進学するという決断をした。してしまった。

 それから約1年後、院生生活が2年目に差し掛かってすぐの頃、私は男性の担当教授と個室に二人きり、3時間程1対1で罵声を浴びせられていた。

「こんな実験結果を見せられて俺はなんてお前にアドバイスすれば良いの?」
「こんな状況になる前にまず相談に来いよ」
「やる気無いのバレバレ」
「就活なんてそこそこにしてはやく研究に身を入れてくれよ」
「後輩たちの研究費のためにも結果出してくれないとさぁ…あーあ、これじゃ来年の後輩は満足に研究もできない」
「ぜんぶお前のせいなんだよ?わかってんの?」

ストレスで周りの音が遠くなる中、「使えない」と烙印の押された実験データをシュレッダーに掛けた。
 おおよそ5度目になるだろう、研究データの取り直しをしていた大学の実験室で朝日を拝んだ時、ふとわが身を振り返ってどうしようもなく悔しく、悲しく、情けなくなった。何をしているのか、何のために生きているのか。いつから分からなくなったのかも分からない問いかけがぐるぐる頭を回っていた。

 「こんな状態で就職なんかする気も起きない…」

 浅い呼吸と早鐘を打つ鼓動に相反してなんだかすべてがどうでも良くなって、静かに涙を流しながら「ここで首を吊ったらアイツは慌てるのかな、そうしたら死ぬ事にも、この命にも、多少の意味はあるのかも知れないな」なんて爆然と思った。

 今思えばこの時にはすでに“抑うつ症状”が出ていたのだが、「院生リタイアとか人生終わりだ」「診断がついてしまったらこのご時世仕事につけるわけがない」「ここから逃げ出したらいよいよ死ぬしか無い」なんていう思いが強くあって、専門機関の門を叩く事はついぞ無かった。この時にちゃんと自分と向き合ってれば、と思わないでは無いが…まあ今更言ったところで後の祭りであろう。

 ぐるぐる巡る思考で実験は進まないまま時間だけが過ぎていった。窓をぼうっと眺める。地平線から上る朝日が曇り無い空の色を変えていく様は、ただただ綺麗だった。当時23歳の時の事だった。

2つめ : 父の浮気がきっかけで家庭崩壊

 前項の通り、最低教授のせいで精神的にはドン底状態、それでもやらない訳にはいかずなぁなぁで当時就職活動していた私だったがなんとか内定を頂くことができた。内定ストックなんてもんは当然無かったので即行でその会社に入ることを決めた。食い気味で「よろしくお願いします!!!!」と人事の方の手を握りしめて久々に1つ肩の荷が降りてスッキリとした気持ちだった。素直な笑顔で家族からの「おめでとう」を受け取り「ありがとう」を返した。(後にこの会社をうつ病で休職する事になるのは、他人事であればなんとも面白い話であろう)

 会社は大学進学後も変わらず住んでいた実家から車で通勤できる距離にある所であったので、必然と引き続き実家暮らし、私は父母と同居しながら働く事になるだろう。姉も兄も家を既に出ていたので、姉兄からしてみれば1人ぐらい父母と一緒に暮らす弟妹がいてほしいという希望もあったんだろうし、家族兄弟仲が悪いわけでは無かったので私もその期待に応える事はやぶさかでは無かった。

 しかし人生とはままならないもので、内定承諾書を先方に送付したその翌日に父の浮気が母にバレた。

 今思い返してもなんでそのタイミングだったんだよ、と悪態を吐きたくなる気持ちは察して頂きたい。私は父の妻ではなくいい歳した娘であったので、正直ショックや裏切られた気持ちは無かった。人間も所詮動物であるから、品の無い言い方をすれば惚れた腫れたなんて性欲と紙一重である。男性は女性と違って生殖機能的に生涯現役らしいので、本能的に種を残すために別の女性に目移りするのは動物学的に考えれば不思議でもなんでもない現象だ。だが再度言わせていただく。タイミングを考えろ。でなければバレないようにやれ。せめて内定承諾書を出す前だったら就職活動をし直して何がなんでも家を出たのに、と。
 (PS:補足して言わせていただくと、私は決して浮気肯定派という訳では無い。甲斐性も発揮できず、双方の関係も上手に精算できずにボロを出した時点で、女性男性性別区別をつけずやった側は知性体ではなく動物と見做す、ただそれだけの事なので。)

 だが父の妻であった母はそんな風には割り切ることが出来なかったらしい。もう、それはもう、荒れに荒れた。それまでの夫婦仲は一変した。父、母、私で暮らしていた家庭内の空気はその日を境に一変した。

 母は家中の物という物を壊し、父の書斎の机を真っ二つにし、父の趣味でもあった彼の本棚の村上春樹の小説を片っ端から破り捨て、四六時中ヒステリーを起こしながら父を責め立てる様になった。
 朝日がチラつく時間から父が出勤する直前まで「そうやっていつも私を馬鹿にする」とがなり立てて家から叩き出し、昼間はひたすら居間でボーッと過ごしていたかと思うと泣きながらトンカチを持って父の机やら持ち物やらを叩き壊す。そして蹲ってまた泣きじゃくり、夜に父が仕事から帰ってくると打って変わって不思議なほど静かになる。だが次第に我慢できないと言った風でまた父を責めるような言葉が口をついて出て、気持ちの高ぶりとともに次第に声量は上がり、夜も更け深夜になる頃には3軒隣にまで聞こえてるんじゃ無いかという有り様で「あの女と寝たんでしょう!?」「昔っからそう!嘘しかつかない!嘘つき!嘘つき!」とヒステリックに叫び散らし続けた。
 父母の寝室は1階で私の寝室は2階だったが、いかんせん母と父の喧騒は3軒隣にまで聞こえるんじゃなかろうかという勢いであったので。同じ1軒屋の2階となれば会話の内容なんて筒抜けだった。

 最初の頃は何も言い返せなかった父だが(浮気した側が全面的に悪いのは自明であるので)、それが数ヶ月にも及ぶようになれば身勝手な話であるが堪忍袋の緒が切れるのも仕方がなかったのだろう。

 朝も。昼も。夜も。時間なんて関係なく。

 喧騒に母だけでなく父の怒号も加わるようになり、物でも投げつけあっているのか、それとも興が乗り過ぎるあまり取っ組み合いでもしているのか。ドタンバタンドタドタと、建築材と枕を隔てて、怒鳴り声だけでなく無機物がぶつかり合うような音も混じって私の元に聴こえてくるようになった。

 「またやってるよ」と不自然に冷めた私の脳裏には、いつだって母の握りしめたトンカチがちらついていた。明日警察に電話する羽目になるかもしれないな。明後日のローカルニュースに父と母の名前が流れるかもしれないな。1年が経つ頃には、喧騒とともに毎晩そんなことを思いながら床に着くようになった。
 因みにその時から現在に至るまで、まともに眠れる夜は私に訪れていない。

 1年が過ぎてもそれはおさまらず、母は目に見えて憔悴して行った。目算でしか無いが、体重も20Kgは落ちていたと思う。

 休日の昼間、母と2人きりになると決まって母は父に対する積年の恨み辛みを私に愚痴ってくるようになった。

「アンタが小さい頃危篤状態になって、入院しなければ死ぬと言われた時だって、あの人は実家の法事を優先して小さな子供たち(姉と兄の事)をみてくれなかった。アイツはアンタをあの時見殺しにしたんだ」
「アンタが中学の時不登校になった時だって、家の居心地が悪いからとお金も無いのに移動希望を出して、単身赴任をして、まともに家にいなかった」
「兄が受験に失敗した時だって、あからさまに母親の教育のせいだと詰ってきて」
「母さんが料理をしなくなったのだって頑張って作ったご飯をアイツが食べないから」
「全部全部アイツが」
「アイツのせいで」

 父を“アイツ”と言いながら罵る母に対して、今思えば私は吐くほどの嫌悪感を覚えていた。当時は努めて心を殺すようにしていたせいでその事を自覚するのがずいぶんと遅くなってしまったが。

「そんなに言うならなんで結婚なんてしたのさ」

思わず私がそう言うと、母は決まってこう言った

「…結婚も子育てもしたこともないアンタには分かんないよ」

 じゃあなんで“子供”にそんな愚痴を言うんだか。
 「私はうつなんだ」「自分でも分かってる」父への罵倒とあわせてそれが母の口癖になった。不安による不眠、体重の急激な減少。側から様子を見ていてもそうなんだろうなあとは思っていた。私は再三「病院に行って薬を貰って飲んだ方がいい」と母に進言した。私も眠れない夜はうんざりだった。だが母は決まってそのアドバイスを聞こえないフリをして、父に対する不満と、精神的に参ってるんだと言うことをただただ溢すロボットになった。私は次第に、母に何も返さなくなった。

「アンタを産まなければ、2人育てるだけで済んだのに」
「望まないのなら、私を産まなければ良かったのに」

 お互いに言葉にはしなかったが、私は確かにそう思ったし、そう思われていると言葉の節々から感じでいた。「なんで生きてるんだろうなあ」という虚しさが唯々深くなったが、それでも死ぬ勇気は無くて夜が明ければ当たり前のように“明日”が来た。死ねないのなら、生きるしかなかった。
 生きるというよりもただ息をしているだけ、みたいなものだったが。

3つめ : 会社で働く事が根本的に合わず適応障害で休職へ

 家庭内が大変なことになりながらも、私はあんまり何も考えずに過ごした6年間の学生生活によって『奨学金という名の借金』を抱えてしまっていので、どうにもこうにも働いてその借金を還さなければならない状況にあった。その事実は私の中では当時結構な重しだった様に思う。身内が近くにいる場合は結婚などを除き会社からの家賃補助の支給は無かったため、実家から通勤するメリットはデメリットを推して余りあるものだった。(それだけが実家…というよりも親から離れられない理由では無かった事が後に判明したのだが、それについてはまた別の機会に語ろうと思う)

 そうして私は、軽度な不眠と抑うつ症状を抱えながら社会人となった。私は中学生になってからこの方「生きてるのが楽しい」と思ったことなど無い人間だったので、当時はそれが「ストレス症状」であり「うつ病の初期症状」であるなんて思ってもいなかった。

 働き続けて、勤続3年目に差し掛かろうかという頃。
 人手の足りない職場、仕事を教えてもらえない環境、にもかかわらず増える仕事にとうとう手が回らなくなり、「適応障害」と診断されて休職せざる終えなくなった。詳しい当時の状況は下記の記事に一通り記しているので、よければご一読いただければ幸いである。

 無意識の内に、「親に迷惑をかける事」を異常に恐れて「第3者から見て順風満帆な人生ルートを辿らなければならない」と自分に課していた私にとって、「精神的に可笑しくなって会社を休職してしまった」という事実はそれはそれは重くのしかかってきた。寝ても覚めても、息をしているだけでも苦しくて(かく言う当時は一睡もできない状態だったのだが)、ただただ毎日「ごめんなさい」と言いながら苦しまずに死ぬ方法だけを考えていた。

4つめ : まさかの精神科医から言葉のアイアンクローをくらう

 4つ目の「じゃあ死ぬしかないじゃん」と思ってしまったエピソードの要因となったのは、まさかの精神科医から発せられた心ないとしか言えない一言だった。

 うつ症状の治療に入って1年を過ぎたときのこと。
 転院先の精神科医に、困りごとや治療の希望を伝えたにもかかわらず、社会復帰への助力もカウンセリング治療も施してもらえず薬物療法のみで対応された挙句に、突然

「嘘つきたくないからもう休職の診断書は出したくない」

と言われた。事実上の「もう治療終わったと思うんだけど?」宣言だった。ちなみに当時の症状的に不眠は継続中で外出も困難、メールや電話をする度に過呼吸になってしまう様な有様だった。どう考えても社会復帰なんてできそうに無かった。それでも言われてしまったからには何かしらの選択をして結論を出さなければならず、やはり職場に戻る事を考えると酷いうつ症状が出てしまう状態だったため、思い切って退職を決めた。そうせざるを得なかった。

 現在通院している精神科は、もともと発達障害の検査を受けるために心療内科から転院した大学病院の精神科だった。心療内科からの紹介状・意見書にはその旨が書かれていたはずだった。それなのに通院し始めて半年間、何度打診しても発達障害の検査に対して渋る様子しか見せなかった、そんな医師だった。
 けれど私は自分の生きづらさやコミュニケーション面の不器用さから、たとえ診断がつかなかったとしても傾向を知ってみたかったのだ。だから一縷の望みを掛けて、退職した事をきっかけに無い勇気を振り絞って再度申し出た。

「社会復帰をしたいけど自分で自分が分からない。発達障害の検査を受けて、何かしらの対処法の参考にしたい。カウンセリングも受けたい。」

それなのに。

「何回も同じこと言ってるからはっきり言っておくけどさ。」
「そんな事してもあなたは意味ない。子供で診断されていないなら発達障害は99%違う。ただの思い込みで発言しないで。」
「医学的には発達障害の検査は傾向を見るための物でも無いし。ただ点数を見て診断がつくかつかないか、それだけ。」
「カウンセリングも必要ない。」
「甘えてるんじゃ無いの?大人なら仕事探しも自分でなんとかするもんだよ?」

と、強い口調で全否定されたのだ。

 ルーティーンのように、処方薬についてのみの質疑が続いた。患者の精神状態よりも新薬の薬効・副作用にしかまるで興味ないとでも言いたげな素振りだった。ここは一体“何科”なんだろうか。“精神科”って、一体何なんだろうか。
 「それじゃあ今日もこの薬出しとくから」と言われて退出するまで、どんなやりとりをしたか、正直書き綴れるだけの記憶が無い。扉を開いて、足を動かして、扉を閉じて、待合室の椅子に座る。会計を済ませて、病院を出て…それまで、嗚咽と涙を抑えるので精一杯だった。

 帰宅してから倒れるように潜り込んだ布団の中でふと頭に浮かんだのは、待合室で見た院内を医者と連れ立って歩く若い研修医の姿だった。大学病院のホームページを見ると、各科の紹介ページに所属医の紹介も兼ねてなのか集合写真が掲載されていた。そこには件の私の担当医が笑顔で写っていて、“教授”として彼らに“精神医学”やら“大人の発達障害”やら“認知行動療法”について教えているらしかった。

 世界ってホントクソだなと思った。

 縦書きの便箋と、安い日本酒の一升瓶を買って、コロコロと変わるもんだから飲まないまんま溜まりに溜まった薬を小さなコンビニ袋が一杯になるまで詰めた。「これでいつでも死ねるな」と思ったら、ちょっと気分がスッとして気持ちが楽になった気がした。

 そうやって完成した「死にたい時セット」は今でも私のお守りみたいになっている。気分が落ちて仕様がない時、それを隠している棚を見ると相変わらず楽になる自分がいる。いつか手放せる日が、来るといいんだけど。

振り返ってみて と 近況

 「思い起こしてみればヤバかったな」エピソード…今は症状が落ち着いているので「客観的に思い出して書けるかなー?」なんて思っていたのだが実際は気持ち悪くなって喉元から粘度の高い唾液を分泌させながら執筆するハメになった。何度か咽せた。なんなら大体構想が固まっていたのに執筆に1週間かかったし体調も若干悪化した。完全に見誤ったおバカさんは私である。

 以上のエピソードで私の「死にたい」気持ちに火を付けた方々だが、大学院生時代の教授や現在の通院先の担当医はきっと私にこんな発言をしたことなんて覚えていないだろうし…というか正直私を“私”として認識しているかどうかも怪しい所だろう。今頃鼻糞でもほじってんだろうなと思ったら一気にバカバカしくなった。前者は会わずにいようと思えば一生会わずにいることが可能だし、後者は『転院する』という対処法で解決する事に決めた。

 会社に関しては、私の「認知の歪み」による「ねばならない思考」と、「常人よりもコミュニケーションが困難である」という“気質”によるものが大きかったのでは無いかと大体当りがついてきたため、大分“無職である”という事に対する焦りは今は無くなってきている。

 現在通所している支援機関のメンターの方が認知行動療法に詳しい方なので、今後その辺りを詳らかにしつつ「できる事とできない事を見つけていこう」と語りかけて下さった。
 母や父との家族関係も、メンターの方がヒアリングして下さった幼少期の振り返りによって「AC(アダルトチルドレン)傾向である」という事が分かってきたので、袂を分つか、気持ちの折り合いを付けて和解するか、「自分で考えて、自分で選択したい」と思っている。

 この記事のタイトルは、大好きなアーティストamazarashiの『僕が死のうと思ったのは』をリスペクトして付けさせていただいた。この記事を書こうと思ったのも、この曲を聴いて思わず涙が滲んでしまったからだった。

「誰とも関わりたく無い」
「ずっと1人でいたい」

 と常々思っていたし、今でも思っている。けれど、支援機関のメンターさんと出会って「人を救うのは人なんだ」という事を痛いくらいに実感した。人間関係は傷つく事の方が多くて面倒くさい。それでも、関わり続けなければ良い価値観とは巡り合えない。

 曲がっても良いけど、折れない。手が離れればすぐ元に戻る。しなやかな棒のような情緒を育んでいけたら1番良いんだろうなあと思う今日この頃なのであった。

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