恵比地下のゲイバーでイケメンにキスされそこなった話
それは、東京屈指のおしゃれタウン恵比寿に勤務して5年ほど経過した時のこと。
その頃、恵比寿に勤務していれば自然と洗練されてくるものだと思っていたのだが、一向に洗練されない。芸能人行きつけのバーや可愛らしい女子が集うカフェなどにまるで縁がない。お呼びがかからない。いつまでたっても、一軒め酒場と中国酒場8と串カツ田中をローテーションしていた。
3軒ともめちゃくちゃいい店で大好きだったが、もっと王道の恵比寿っぽい都会の女が通う店に行ってみたい。そして恵比寿にふさわしい女になりたい。
そんな悲願の達成を夢に見ながら、そろそろこの怨念が生霊になり、オーガニック・スムージー店の壁などにシミを作るんじゃないかと思いはじめたある日、友人の男がゲイバーに行ったという話を小耳に挟んだ。
彼はバーのママにえらく気に入られて、ボトルキープしてきたという。
恵比寿のゲイバーにボトルキープ
私の理想とする、甘すぎない大人の都会的な夜遊びの響き。
アカ抜けないアラサー女ひとりでは絶対に気後れして入店できないので、人に連れて行ってもらえるのはまたとないチャンス。友人に頼み込んでそのバーに連れて行ってもらうことになった。
私、当時32歳、ゲイバーデビュー。
緊張して入った店は見た目はごく普通のバーで、気さくなママさんがなめらかに話題を振り撒き、盛り上がっていた。お客さんは皆常連のようだったので、やはり一見さんでフラッと入ってくる人は少ないのだろう。連れてきてもらって本当によかった。
私は上機嫌で友達がボトルキープした鏡月を飲み、すっかり場に溶け込んだつもりになった。
帰り際、ママに「今度ひとりできまーす!」と元気よく告げると、「そう言って帰って本当にまた来る女みたことないわ」と笑顔で吐き捨てられた。
本当にまた来るんだなーこれが!と昭和調で決意を固め、2度目の参戦の日を迎える。
ひとりで……と啖呵をきったものの、小心者の私はソロデビューする勇気が出ず、助っ人の女友達を招集した。
緊張しながら店のドアに手をかけ、このワタシがまた来たよと、おどけた表情を作って元気よく店に入ったが、店は客ゼロ。私のアホ面が宙に浮く。それを見たママは一瞬明らかに「誰だっけ?」という顔をした。すぐに営業スマイルになり、初めましてという体で迎え入れてくれた。
前回のことはリセットされていた。私は馴れ馴れしい一見さんだと思われている。恥ずかしい。
席に着いたものの、調子が狂って挙動不審になった。結果、前回以上のハイペースで鏡月をがぶがぶ飲むはめになったのだが飲んでテンションを上げるしかなかった。そんな調子で、ほどなく酔いがまわり、トイレに行きたくなった。
小さな店舗が連なるビルの地下街はトイレが共用だ。私は一旦店をでて用を足した。そして、フラフラと店に戻ろうとした時だった。
前方から、遠目でもはっきりわかるほどのイケメンが手を振りながら走ってくるのが見えた。その場には私しかいないのでほとんど間違いなく私に手を振っている。
誰だろう?と思う間にもイケメンはどんどん迫り、見ているうちに脳内で、手を振るイケメンのスローモーション再生が始まった。目をこすると彼のまわりだけキラキラとちりばめられた星の装飾が見える。相当酔ってるな私。
ついに目の前に現れたイケメンと見つめ合う私。脳内美化された私は、さながら少女漫画の主人公になりきり、小首を傾げて「なあに?」のポーズを決めた。
「やっだー!ちょっと大丈夫?」
ところが、イケメンの口から出たのはバリバリのオネエ口調。瞬間的に我に返る。
そういえば、ここはゲイバーのあるビルだ。お店のスタッフが心配して私を迎えにくれたのだろう。
「すみません、大丈夫です!」
私は店に戻ろうとしたが、店員はなぜかニコニコしながら行く手を阻んでくる。
「ちょっと待ってよう、ねえあんたいくつ?」
「32歳と10ヶ月ですね」
「32歳にしてはまあまあね」
何がだ??
そのままポカンとしていると……
「ちょっと、来なよ」
お、お、男の声。
何が何だかわからないうちに、私はすごい力で廊下の端に引っ張られ、強引に壁に押し付けられた。
KABEDON
巷の腐女子が、夢に見るという、イケメン限定で
許されるとう、少女漫画にありがちだが現実には絶対に起こらない設定第1位の、壁ドンだ。
見ればみるほどのグッドルッキングガイが、目の前で、おデコこつんしそうな距離で、私を見つめていた。オシャレメガネをかけた斎藤工のような甘い顔に、柔らかくウェーブした髪、高身長で上から見下ろされている。
近づいてくる顔……
待って、オネエなはずじゃ、、、え、どっちなの?!!!
たんま、こんなイケメンに壁ドンされながらキスされ、、、でもオネエだったし、オネエってアラサーのダサい女とキスとかするの?いやもう、いいから。一生来ないチャンスだから!!
頭は大パニックでショートしそうになった時、
突然、となりの台湾パブのドアがばーんと開いた。
固まるふたり。
数秒後、台湾パブの店内から、赤ら顔でつるっ禿げの爺さんがノソノソと出てきた。
爺さんは私たちを一瞥もせず、やや焦点の合わない目を真っ直ぐ出口に向けてゆっくりと帰っていく。砂浜を這う海亀のようにじわりじわりと遠ざかる後ろ姿を、2人でいったいどのくらい目で追っただろうか。
「やだ、亀仙人出てきちゃったじゃないー」
どっちらけてオネェに戻ったイケメンが言った。そして「あんたウブだね、じゃね」と踵を返すと、何事もなかったかのようにスタスタと帰っていった。
壁に張り付いて取り残された私。真横のトイレの鏡にはマヌケなアザラシのような自分の顔があった。
店員じゃなかったのか。
私はとぼとぼとゲイバーに戻った。たった今しがた起こったことなのに、はるか昔、まるで浦島太郎が海亀に連れ去られて帰ってきたかのようなトリップ感。
店のドアを開けて、女友達とママに事の顛末を話すと、ママはこの日初めて本気で大笑いしてくれた。
エビ地下の洗礼受けたね、と。
店を出た時、前回と全く違う、本気の「また来てね!」を言ってくれた。
ついに私は、恵比寿都会の女の仲間入りに一歩踏み出せたのだ。
それは間違いなく嬉しかったのだが、イケメンに壁ドンからのキスされ損なったことの未練が断トツで上回る。例えからかわれたのであってもいい。キスされたかった。
新たな未練と亀仙人への怨念でこのまま壁のシミになって埋まりそうだった。
今でもあのバーはあのままなのだろうか。