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「私スキ」全盛期、スキー教室で味わった苦い思い出

バブル期にスキーブームというものがあったということを大人になってから知った。

アルペンやJR東日本のCMがバンバン流れていた1990年代のいつかの年、

私はコブだらけの急傾斜を、恐怖で意識を失いそうになりながら滑り降りていた。

スキーブームもあってか、当時は冬休みになると父の友人一家と数家族でスキー旅行に行くことが恒例になっていた。「私をスキーに連れてって」に憧れるにはまだ幼なく、単純にたまにしか会えない父の友人の子ども達と会って遊べることが嬉しかったのを覚えている。

旅行もスキーも楽しみにしていたのだか、私を憂鬱にすることがひとつだけあった。

それはスキー教室

日中、子ども達は当たり前のようにスキー教室に放り込まれ、大人は大人同士でスキーを優雅に楽しんでいた。親曰く、「大人になった時に正しいフォームで滑れた方がカッコいいでしょ?」とのことで、スキーを習うことの贅沢さを知っている両親からしたらあながち嘘ではないとは思うのだか、子ども抜きでゲレンデを楽しみたかったという理由も少なからずあったのではないかと、今振り返って思う。

私は知らない子どもの集団に入っていくのが苦手だ。知らない人と一緒にリフトに乗るのも、自分の滑りを見られるのも、他の生徒が滑るのを待つ時間も嫌だった。

要は(当時は)人見知りで協調性がなかったのだ。

スキー教室なんか入らずに家族や友だちだけで滑りたかったが、どうやら不満があるのは私だけで、他の友だちはスキー教室が苦じゃなさそうだった。ひとりだけ嫌がってるのは恥ずかしいので、ポーカーフェイスで嫌じゃない風を装った。

スキー教室ではスキーのレベルによってクラス分けされる。私は別に上手くなりたいわけでも速く滑れるようになりたいわけでもなかったが、仲良しの友達はみんな向上心が高かった。もしくは普通に運動神経がよくて、レベル分けテストで上級クラスに振り分けられていた。

私と言えば、もともと運動神経は中の下。しかも向上心もやる気もない。下手なりに楽しく滑れればいいので下のコースに入ればいいのだが、自分だけ下級コースに入るのは恥ずかしい。さらに、下のクラスには2歳年下の妹がいる!妹と同じレベルというのは姉のプライドがゆるさなかった。

つまらないプライドと見栄と人見知りという弱点に惑わされた結果、この時は上級クラスに無理やり潜り込むことをチョイス。これが悪夢の始まりだった。

知らない子ども達の中に入って緊張し、ただコーチの後を滑るだけなのに転ぶ転ぶ。転んでスキー板が外れて、雪が付いたまま慌てて履き直すからまた転ぶ、の悪循環が発生。

リフトでは知らない人とペアにならないように焦って友達について行くので、スキーの板が上空ではずれるという赤っ恥案件にも見舞われた。

1度目は笑って許してくれたコーチも、2度目にスキー板を落とした時には無言になり、板が落ちているコース外の森にザザザっと滑り降りて行って戻ってくると、私の記憶によるとかなり強めに私のブーツの裏についた雪を叩き落とした。以降はなるべくコーチと一緒にリフトに乗らされた。

これだけでもう散々だ。しかも、当時のスキーウェアや手袋の防水性能ときたら、スキーブーツの重さといったら、今と比べ物に塗らないほどひどいものだった。開始から1時間もしないうちに手袋もブーツの中も、下手をすれば尻から染み込んでパンツも、ビショビショだ。

「私スキ」の原田知世は、同じように転んでもなぜ可愛く見えるのだろう?それよりあの帽子のかぶり方、耳出てるし絶対冷たいはずだろ!

などと、当時のスキーの過酷さを知る身としては、大人になってわざわざ観た映画の演出にイチャモンをつける。

スキー教室の記憶に戻る。

自分だけが何度も転んで、惨めで、手も足も冷たくて、心はとっくに折れていた。ここまでしてなぜスキーをしなくてはいけないんだろう?とゴーグルのなかで涙をこぼした。「三上博が助けてくれないかな?」と当時子どもだった私は妄想することもできない。

何度も転んで雪をかぶって、髪の毛がつらら状態でカラカラ鳴り出す頃、スキー教室は終わってやっとペンションに戻れるのだった。

これが数日間続く。私は毎朝本気で悪天候によるスキー場閉鎖を祈った。

そしてスキー教室最終日、祈りのせいか天候がおかしく、山の上の方はアイスバーンになっているとの情報が入った。これは教室中止か?と小躍りしたのも束の間、予定通り教室が開催することがわかった。

友達は皆大喜びで、私も一緒に喜んでいる風を装ったが、内心「バカかよ、さっさと中止にしろや」と呪った。

スキー場について手袋をはめるも、手持ちの粗悪な手袋は数日に渡って雪で濡らされて、干して乾かしても乾ききらず、手を入れた瞬間から湿っていて不快だった。

聞いていたアイスバーンはいつものコースでは発生しておらず、助かったと思ったその時、コーチが「最後だから、行きたい人は少し上のコースに行ってみましょうか?」と提案してきた。嫌な予感がして周りを見渡すと、案の定、友達は皆目をキラキラさせて「行きまーす!」と手を挙げていた。

この時の「絶望感」を今でも忘れない。

なぜ行く?アイスバーンなのに……どうして、どうして?
脳内で松任谷由実の「リフレインが叫んでいる」が、あの、不安を煽るようなイントロに続いて流れる。何が「スキー天国」だ。

怪我をしたい。ちょっと軽い怪我、、、例えば鼻血とか。正当な理由で先にペンションに戻りたい。

そう願ってみるも鼻血なんか生まれてこのかた出したことなかった。運動神経は良くないが健康なのだ。無駄に体力もあるので無理もできてしまうこの身体を呪った。

しかし、見栄っ張りで仲間から離脱することがアイスバーンより怖い私は、作り笑顔の下で泣きながら、一緒にいくことにした。

山の上の方は心なしか寒かった。しかも霧も発生していて斜面がよく見えない。

「これ、無理じゃねっすか?」

すがるような気持ちでコーチをみるも、

「あーちょっとコブ多いね、無理しないでひとりずつゆっくり滑ってきて」と言いながら、自分からさっさと滑り降りてしまった。

もう1人のコーチが生徒を順番に滑らせていくが、先ほど目を輝かせていた友達は「スリル狂か?」というほどの狂ったスピードで降りて行き、コブもうまく避けていた。こうなると私だけゆっくり行くわけにいかない。

意を決して滑りだした。

なるべくコブにぶつからないように道を選んだつもりだったが、斜面が急すぎてどんどんスピードがでる。コブを避けよう避けようとするとだんだん直滑降のようなかたちになり、ついに自分でコントロールが利かなくなった。自分がどこを滑っているのか、どんな格好をしているのか、まるでわからない。

「もうダメかもしれない」

と思った時、コブのひとつにぶつかり、そのままジャンプ台のように乗り超え、私は宙に浮いた。

今回のスキー旅行で何回転んだかわからないが、こんなに対空時間が長かったのは初めてだな、とだけ思った。

次の瞬間、私は雪の上に叩きつけられた。

何がどうなっていたのか、両手を広げて胸からつんのめるように転んだ。勢いは止まらず、両足が逆に反り、要はエビ反り状態になった。スキーでここまで大胆にコケた人はいただろうか?

転んだ衝撃が強くて、息ができずそのまま動けなくなっていたところ、目の前に何かが降ってきて「ザクッ」と雪に刺さった。

ふと、視界が明るくなったと思ったらゴーグルが外れていた。

雪に刺さったものを見ると、自分のスキー板。足から外れて上から降ってきたのだった。

呼吸ができるようになったので起き上がろうとしたところに、コーチが慌てて滑ってきた。転んだ私より顔が青白くなっている。私を立たせて「大丈夫?」と言いながらいろいろ調べて私の顔を見た。

「ああー大変!!血が出ちゃってる」

とコーチが叫んだ。

もしや、、鼻血か?

そのままコーチに支えられるようにして下に降りることになり、悲願の怪我……正当な理由による離脱を図らずも実現したわけだ。

コーチは私を支えながら、「強かったね、泣かなくてえらいね」と褒め、励まし続けた。私はただただ無様に転んだことが恥ずかしくて泣くどころではなかったのだが。

下に降りておそらくコーチが両親に連絡をとり、どうにかしてペンションに戻って鏡で自分の顔を見て絶句した。

縦一文字に、額の中心から鼻の頭まで、ヤスリで削られたように擦りむけている。

そのインパクトたるや、ジャンプで顔の傷にまつわる一話が書けそうな迫力だった。

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当時の私の衝撃を、何十年後かに絵にしたのかこちらの流行りの漫画だと思われる。

飛んできたスキー板が目の前に刺さったと思っていたが、顔をかすっていたらしい。あと数ミリずれていたら頭に当たったのかもしれないと思うとゾッとしたが、、

そんなことより!顔の真ん中に縦一文字の超目立つ傷ができてしまったではないか。

後から戻ってきた友達は傷を見てたいそう心配してくれたが、父は私の顔を見て吹き出した(気がする)。

その年の冬は顔の傷を隠したくてあまり外に出られなかった。冬休み明けに学校に行って目立つのも死ぬほど嫌で、学校に行きたくないと散々駄々をこねた(結局行ったが)。

顔と心に大きな傷を負ってまで参加したスキー教室だったが、この日のトラウマにより上級コースには足が向かなくなり、スキーは一向に上達しなかった。

さらにさらに、私が大人になる頃には時代はスキーからスノボになり、スキーの正しいフォームや経験が生かされることは現時点でないのだった。