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ヴィア・ドロローサ~イエスが歩いた悲しみの道【第3巻】~イスラエル聖地巡礼記とイエスの生涯

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15‐13)

■全3巻の構成

全3巻の構成は、以下の通りとなっています。

【第1巻】(別ノート)
はじめに
■「ヴィア・ドロローサ」とは?
■古代イスラエルの民来日説も
■全3巻の構成
■本書の小見出しについて
第一章‐イエスの誕生~ベツレヘム
◆あなたがたの心は私たちの心と同じですか?
■はじめてのイスラエル行き
●ナザレ
■エルサレムへ
◆五つの福音書
■ベツレヘムでのデ・ジャ・ヴュ
●おさなごの誕生
◆本当のイエス誕生の地は?
●割礼と聖別
■ベツレヘム生誕教会
◆クリスマスはイエスの誕生日ではない?
●イエス親子のエジプト行き
■ベツレヘムからエルサレムへ
◆処女懐胎は真実か?
◆イエスの教えは古代日本に入っていた?
■ 賢者のことば
■著者略歴
■著作権について

【第2巻】(別ノート)
第二章‐少年時代から伝道開始へ
●エルサレム神殿へ
■古くて新しい国
■悲願の建国
◆死海文書と謎の教団
◆ヨハネとイエスはエッセネ派だった?
◆エッセネ派とイエスの教えの共通点
■安息日のテルアヴィヴ
◆エドガー・ケイシーとフリーメイソンリー
■妖しい街
◆イエスはインドやチベットで修行した?
◆アジアに広がるイッサ伝説
◆チベットで秘密の巻物を見た女性
◆チベットに伝わるイッサ(イエス)の生涯
◆それでも残る疑問
◆創作の可能性は?
●バプテスマを受ける
■四回目の渡航
●伝道の開始
■財布をなくした
●イエスの奇跡
◆奇跡は事実だったか?
◆物質化現象の奇跡
■悪名高き出国審査

第三章‐エルサレム
●エルサレム入城
■旧市街探検
●聖都での教え
■エルサレムへ
■主の祈りの教会
●イエスの涙
■主の泣かれた教会
●血と肉と
■最後の晩餐の部屋
◆『ダ・ヴィンチ・コード』の謎
■イエスに妻がいた???
■ダビデ王の墓
●ゲッセマネでの苦悶の祈りと逮捕
■万国民の教会・ゲッセマネの園
●ペテロの否認
●鶏鳴教会

【第3巻】(このノート)
第四章‐悲しみの道
■本当の十字架の道はどこか?
●死刑判決を受ける
■第1留:普段は入れない小学校に
●鞭打ちの刑
■第2留:鞭うたれる
●主が倒れる
■第3留:初めて倒れた場所
●母は見ていた
■第4留:母は見た
●十字架を背負うシモン
■第5留:十字架を背負った者
●ヴェロニカの慰め
■第6留:布の奇跡
●二度目に倒れる
■第7留:神の子が殺された
●女性たちを慰める
■第8留:女たちを慰める
●三度目に倒れる
■第9留:道に迷う
●ゴルゴタの丘
■第10留:教会の中へ
●十字架に釘付けにされる
■第11留:本当に「無力」だったのか?
●イエス死す
■第12留:心を乱さずに見られるか?
■神の操り人形
■友のために命を捨てること
●十字架から降ろされる
■第13留:聖母の祭壇
●墓に葬られる
■第14留:イエスの墓
◆宗教と暴力
■神使い?
●イエスの復活
■園の墓?
◆イエスは本当に復活したのか?
◆肉体的復活と霊的復活
■マリアの墓の教会

第五章‐昇天とその後
■三度目のエルサレム
●復活後の教え
◆生まれ変わりと復活
■オリーヴ山
■イエス昇天の地の隣で寝る
●イエスの昇天
■昇天教会

エピローグ
あとがき
■参考文献

■小見出しについて

このノートでは、ひとつの章の中の小見出しに付加する記号によって、以下のような意味付けをしています。
小見出しの先頭のマークによって、以下のような分類となっています。

「■」:百瀬の聖地巡礼記
「●」:イエスの生涯
「◆」:小論またはエッセイ

第四章‐悲しみの道

■本当の十字架の道はどこか?

1999年5月1日、土曜日。
初めてのイスラエル出張で、週末のエルサレム巡礼の2日目。

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朝、ジェルサレム・タワー・ホテルをチェックアウトし、歩き出す。
今日の目的地は、ヴィア・ドロローサだ。
イエスが処刑の前に十字架を背負って歩かされた、旧市街の道。

ラテン語で「Via Dolorosa」とは、「苦難の道」という意味がある。
いよいよ、イエスが歩いた道を実際に目にすることになる。

10分ほど歩いて、西側のヤッフォ門から旧市街に入る。
ヴィア・ドロローサ(苦難の道、または悲しみの道)は、イエスが十字架を背負って歩いたとされる、1キロ弱の道だ。
旧市街の中の、アラブ人街にある。

その「悲しみの道」には、聖書の記述にしたがって、第1留から第14留まで14の留(ステイション)が指定されている。
この14の留が定められた時期については諸説があるが、13世紀から16世紀頃にかけてのことだったらしい。
その内の9つは福音書の記述に基づくものだが、他の5つは民間伝承によるものだ。
多くのクリスチャン巡礼者たちがするように、その順番通りに歩くことにする。

ヴィア・ドロローサについて書く前に、ここではっきりさせておかなければならないことがある。
福音書の著者たちが、ここでイエスがこういうことを言ったとか、こういう行動をしたなどと書いているが、はっきり「どこ」という正確な場所は明示されているわけではない。

イエスの処刑から40年ほどたった西暦70年に、ユダヤ教徒がローマの圧制に対して立ち上がり、ユダヤ戦争が興った。
彼らはエルサレムでティトゥス将軍の率いるローマ軍と熾烈な戦い繰り広げた。
結局ユダヤ教徒側の敗北に終わり、神殿を含むエルサレム中の建物はすべて破壊された。

132年には、ユダヤ教徒が再度反ローマ革命を試みてバル・コホバの乱が興るが、これも失敗に終わった。
エルサレムはローマ風の町に建て直され、ローマ人はユダヤ教神殿があった場所にユピテル神 (*)を祭った。

*ユピテル神:英語読みはジュピター(Juppiter)で、ギリシア神話のゼウスにあたる。 ユピテルはゼウスと同一視される以前から、すでにローマの神々の中心となっていた。 ユピテルは「天なる父よ」という意味で、ゼウス同様に元々はインド・ヨーロッパ語族に起源をもつ天空神。

ユダヤ教徒(キリスト教徒も含む)は原則として、エルサレム市内に住むことを禁じられた。

そのため、イエスの時代の町並みは大きく変わってしまった。
イエスが足跡を残した場所の正確な位置に関して、文書で書き残されているわけではない。
その後200年ほどの間、キリスト教徒が立ち入れなくなっていたエルサレムで、そのような聖地の位置が正確に記憶されていると考えるのは、幻想にすぎない。

それ以前に、特にキリスト教徒にとってはもっとショッキングな事実がある。
数世紀にわたる聖都の破壊と再建の繰り返しによって、旧市街の地表面は当時よりも高くなり、イエスが生きていた頃に地表だったところは、地下数メートルに埋もれているのだ。
そのため、現在ヴィア・ドロローサと呼ばれている道をイエスが十字架を背負って歩いたということは、幻想なのだ。

それを考えると、イエスがある行動をとった正確な場所を特定するということは、ほとんど不可能であることがわかるだろう。
これから紹介するヴィア・ドロローサにしても他の聖跡にしても、同様に考えなければならない。

現在ヴィア・ドロローサと呼ばれ、死刑の判決を受けたイエスが十字架を背負って歩いたとされている道も、14世紀以前の聖地の地図にはどこにも示されていない。
イエスの受難から千年以上たってから14の留が決められたのも、どれほどの根拠があったのかは疑わしい。

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まずその基点(第1留)からして、イエスが死刑の判決を受けたとされる場所については、異説がある。
ヴィア・ドロローサの基点となっている、ローマ総督ピラトの邸宅があったという場所は、現在信じられている場所を含めて、3つほど説がある。

ドミニコ会の考古学者P・ベノーの説によれば、ローマ総督ピラトの邸宅があったのは、現在ヘロデの宮殿とされているところだという。
そこは現在、聖墳墓教会が建っている位置の南にあたりで、ダビデの塔の南側にある。
イエスの裁判が行われたのは、現在信じられているところの、エルサレム神殿の北側にあるアントニオ要塞ではなく、前記の場所だというのだ。

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【図】各留の位置(1)

ラッセル・ショートの『真説「聖書」・イエスの正体』でも、同様の説をとっている。
ピラトが駐屯していたのはアントニア要塞ではなく、旧市街の外れにあるヘロデの上宮殿だったことは、考古学的・歴史学的に証明されていて、プリンストン神学校で新約聖書に関する考古学的研究を行うジェームズ・チャールズワースもその説を支持しているという。

この説が正しいものだとすると、ヴィア・ドロローサは、聖墳墓教会へ向かって西へと進む道ではなく、北へと進んでいく道だということになる。

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【図】各留の位置(2)

要するに、どの説を取るかによって出発点が大きく変わり、ヴィア・ドロローサの位置はまったく変わってしまうのだ。
というか、その基点をヘロデの上宮殿とする説の方が、どうも説得力があるようだ。

だが、イスラエルを訪れる巡礼者たちのほとんどは、現在「ヴィア・ドロローサ」と名づけられた通りが2千年前にイエスが十字架を背負って歩かされた道であると信じて疑わずに歩いているのだろう。

ローマカトリックなどのキリスト教会からすれば、過去にそう定めた場所を、いまさら「過去の推定は誤りでした」として変更することはなかなかできないのかもしれない。
このような理由から、本書で紹介しているイエスゆかりの場所についても、あくまでも伝承に基づく『仮定』によって書いているにすぎない。

ヴィア・ドロローサでは、毎週金曜日の午後3時から、聖フランシスコ会の修道士たちが十字架を背負いながら「十字架の道行」の行進を行う。
そこで、イエスの身に起きた事柄の祈祷文を読み上げ、参加者たちは賛美歌を合唱しながら進むという。
第1留は、イスラム教の岩のドームがある神殿の丘の北にある。イエスは、ここにあったピラト総督の官邸で十字架刑を宣告されたという。
現在はエル・オマリヤ小学校の校庭になっていて、金曜日以外は入ることはできない。毎週金曜日の午後には、十字架の道行の行進が行われる。


●死刑判決を受ける

ゲッセマネで捕らえられたイエスは、ユダヤ教の大祭司カイアファの邸宅の地下牢で一夜を過ごした。
夜が明けて、イエスは縛られ、総督ピラトに引き渡された。大祭司たちはイエスを殺そうと相談したが、死刑の判決を与える権限はもっていなかったからだ。

ピラトは、正確にはポンティウス・ピラトゥスといい、ローマ帝国の第5代ユダヤ総督だった。
日本語聖書では「ポンテオ・ピラト」と翻訳されている。
ローマ皇帝ティベリウスの治下に総督を務め、ローマの騎士階級に属していた。

ピラトはイエスに尋問を始める。
「お前がユダヤ人の王なのか」
「それは、あなたが言っていることです」とイエスは答えた(マルコ15‐2)。

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【絵】イエスとピラト

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