たまに猛烈に料理がしたくなる
料理をしたいという衝動は、常日頃イソギンチャクのようにふよふよと生きている私にとってはいつも唐突に訪れるものであり、特に今日のその閃光のような激しさたるや、極めて珍しい。
もっとも前の晩に未だかつて無い量の涙と泥のような感情を吐き出し切っていた人間にとって、空っぽな体とまっさらな気持ちで何かを新しく創り出したいという欲求が現れるのはごく自然、かつ精神回復の指標として喜ばしいものであるのだが。
料理らしい料理がしたい。例えば朝食時のようにパンを焼き、冷蔵庫の中のものを皿にそれらしく並べるだけでは全く満たすことの出来ない欲求である。
ものを刻みたい。それも葉物野菜のような生易しいものではなく人参や胡瓜や肉のような刻みがいのあるものを。各々に適した包丁を選んでどう刃を入れていけば最も効率が良いか考えて、それから遮二無二切り刻みたい。
あるいは異なる形、匂い、色、質感を持ったその一つ一つの欠片を丁寧にボウルに集めて、それから鍋に一気に放り込み、熱で色や体積が変わる様を眺めながら無心でそれらをかき混ぜていたい。
台所とはひとつの国家である。その大統領たる母が、今週ミートソースを作りたいと言っていたことを私は記憶していた。
ミートソース、それはまず玉葱と人参という、包丁を入れるに一筋縄とはいかない硬さと美しい色を持つ野菜を切り刻むところから始まる料理である。
記憶の中にある、2色のキラキラした粒々を挽肉と一緒に鍋の中でガシャガシャと混ぜる時にいつも感じるあの全能感が、コンロ一帯を包むあの垂涎の匂いが、気づけば私の体を動かしていた。
私は台所の臨時大統領となって、異国の知らない女の歌に身を揺らしながら、夢中で調理を進めていた。
気がつくと4時を回っていた。30分後には家を出なければならなかった私は焦った。
火を弱め、いったん掃除機をかけてきて、ジブジブと音を立てる鍋をかき混ぜる。洗面所に行って歯を磨いてきて、急いで戻ってまた鍋をかき混ぜる。最後に髪にアイロンを通してきて、またかき混ぜて、ここで遂に火を止めた。もう支度は終わったのである。鍋の中もまた、十分に熱と旨味が行き渡っているはずである。
しかし私は気づいた。はたしてこれで万歳、完成したと言えるのであろうか。
私は味見をしていなかった。
ブイヨンがなかったため、和風も洋風も綯い交ぜになったような旨味成分を適当に放り込んで、トマトの酸味を中和すべきかと思いつきでみりんを適当に流し込んだそれが最終的にどんな味になっているのか検討がつかぬ。
いや、正確にはトマト傾向の味がするに決まっている、それが自然界と人間の調理技術がもたらす摂理である、とは流石に思えるのだが、それがこと味にうるさい我が家の中で「美味い」という評価を無事得られるのかということについては、全く検討がつかぬのである。
しかしジブジブと煮えたぎった直後のそれをひとさじでも口に入れようなど、猫舌を極めている私には出来るはずもなかった。当然、いつものように時間をかけてふぅふぅして、やっと口に運んで味を分析して、また口を濯いでという時間は残されていない。
私は嘆いた。衝動のままに最早ミートソースたりえない料理を拵えて、誰もいない家に忘れ物のように残してきてしまったのではないか。
それはなんと情けない、そしていかにも私らしいことなのだろうか。
家を出た無力な私は九段下行きの半蔵門線の車内で、せめて帰宅した台所の大統領たる母がこれに気づいて、味見をした上で適切な処置を施してくれることを願いながら、なんの解決にもならない文章を書き散らすことしかできない。
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