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感動。

感動して涙したことは、ずっとなかった。
それどころか自分に感情があるとさえ、知らなかった。
幼少時よりずーっとボーっとしていて、周りがどこか遠くに感じられた。話しかけられてもなかなか気がつかなかったり、質問された内容が分からなかったりした。幼稚園の頃はとくに。

悲しみ、怒り、寂しさ、あと柔らかなしあわせ、穏やかな深い、深い、愛情としあわせは知っていた。
ただ、ごく個人的で、穏やかで、渚のようで、心が大きく動く気配は感じられなかった。

心をすっかり閉ざしてしまったことがあった。
中学1年生の秋、だったと思う。どのくらいか分からないが、1ヶ月だっただろうか?もっとだろうか?
学校へ通えず、ひたすら罪悪感や外で誰かに見つかるかもしれない恐怖や未来への絶望だけの、「悪いことをしている」背徳感と、中学校や勉強が嫌いなことに嘘はつけない自分とに挟まれ、
どこへも行きつけない時だった。
自分の世界にひたすら閉じこもり、本当に、本当に、世界が遠くに感じられた。
ひどく心が無くなったわけでもないと思うのだけど、周りの声、それこそ家族の声にも反応せず、何日間も口をきかずに暮らした。
それがどうやって終わったのかは、覚えていない。

自分に感情があると気づいたのは、一昨年の3月だった。
大学1年次の春休みに、一週間岩手でまちづくりするスタディツアーに参加した。いつどうやって気がついたか、本当にこの時に気がついたのか、覚えていないけれど、
自分にとても複雑な感情があると気がついた。
仲間に考えていること、感じていること、望んでいること、初めは伝えるのがほんっとに下手くそだった。
だって、「どんな気持ち?」「どうしたい?」そんなの、自分にないと思っていたんだから。

感情を出すと、よく心が動くようになるらしい。一昨年の夏は、一つ一つ、小ちゃな心の動きを確認する毎日だった。
感動する、て感覚も知った。町の人が名前を覚えてくれてた時、お話している時、すごく心が動いて、ずっとこの光景を覚えていたいと、思った。

最近は、いろんなことに涙するようになった。
ニュースをみて、文章を読んで、映画をみて。感動して、悲しくなって、あるいはなぜか、涙が出てくる。
引っ越して、飲み友だちは未だできず、一人でほとんどの時間を過ごしている。毎週なんだかんだ、誰かと電話して、
そうしてお喋りしてるときに、感情が動いている。
でも一人だと、感情を出していなくて、やっぱり心を動かすのは、まだ下手な気がする。
もう少し、いろんな物事に大きく心を揺れ動かしてみたい気がする。
だから、いい映画でも観て、たくさん感動して、たくさん泣きたい気分なんだ。

「いま、会いにゆきます」市川拓司さんとの出会いは、中学生のときでした。

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