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遠い夏の日の吐瀉物

「吐いた人はね、吐いたものを始末しなくていいのよ」

夫はあまり病気をしない人なのだが、たまたま何かに罹患して珍しく吐いた。
いいよいいよ、私やっておくよ、と言って吐瀉物を片付けていて、ふと思い出したことがある。

あれは中3の夏。
ひどいめまいが続いて、毎日吐き気と戦っていた。
あの時は家庭科で、家庭科教室の窓辺には端から端まで横たわる長い流し場があった。
机に伏してじっとして、でもとうとう我慢しきれなくなって、授業中立ち上がり、窓辺に急ぎ、その流し場に吐いてしまったのだ。

私の汚れた胃の内容物。
誰にも見せたくないのに。

すみません、すみません、という私に、その時の家庭科の先生が言ったのだ。

「吐いた人はね、吐いたものを始末しなくていいのよ」

「・・・えっ?」

「匂いで、また、吐いちゃうでしょ」

駆けつけた保健の先生と、家庭科の先生が、流し場を片付けてくれていたような気がする。

夏の暑い日で、吐いたことで気持ち悪さが少しやわらいで、自分の汚物を誰にも見られたくない、触られたくない、と思う反面、自分が汚してしまったのに何もしなくていい、というのはとてもラクだなぁ・・・とぼんやりと思っていた。

学校に関してはあまり良い思い出がない。
私はとにかく大人が嫌いで、学校の先生ももちろん嫌いで。
特に家庭科の先生なんて時代遅れの考え方を強要してくるし、そもそも先生の中では格下じゃんか、なんてひどいレッテルを貼っていたものだと思うが、そういう認識だったのが正直なところ。
だから授業の内容なんて全く覚えていないし、先生の名前すら記憶にない。
でもあの言葉は、あれから何十年経った今も、こうやって時々思い出す。

そして、誰かが嘔吐した時はその人は片付けなくていい、という法律みたいなものが私の中に刻まれている。

人は、誰かにしてもらったことしか人にできないものなのかもしれない。

遠い夏の日に受け取ったあれは、そういう類のものだった気がする。
誰もが気づかずに何かしら受け取っていて、誰かにそっと贈り続けている・・・
やさしさとか思いやりとか、形のないものなのに名前までつけられているのは、こういうやり取りが確かに“存在”し、綿々と続いてきたからではないか。

先生、お礼は言えなかったけれど、あれ以来吐いた人には自分で片付けさせていないよ。

未来のために、なんて大層なことはできないけれど、この連綿の一部として、今もささやかに糸を紡ぎ続けている。


***

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