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自分らしく生きることへの葛藤~標準語話者である筆者が方言だけで生活してみた~

私はある実験をしている。

標準語と鹿児島弁のバイリンガルである私が
鹿児島弁のみで生活することだ。

「方言で生きる方が自分らしく
楽に生きられるのではないか」
と仮説を立てた。

実験の背景

もともと私は関東育ちであるが、
鹿児島出身の両親に育てられたため、
標準語はネイティブではない。

幼稚園に入園した際は標準語を話せなかった。

「人に馴染むための言語」
として標準語を身につけ、

家族と他人、方言と標準語のスムーズな切り替えが
できるようになった。

しかし、最近ふと気がついた。

自分の思いを表現するときに、
方言で話した方が安心して言葉にできる、と。

そう考えるようになると、
標準語で話している自分
偽りの自分が話しているかのように感じられた。

そうした経緯から、この実験に臨んだのであった。

実験結果

一週間の実験の結果、
仮説は半分正しく、半分誤りであった。

そこにはマイノリティであるゆえの苦悩があった。

自分らしく生きることには、苦痛が伴う。

方言で表現できることによる居心地の良さ
少数派であることの居心地の悪さを同時に感じたのだ。

自分は方言の方が伝えやすいと感じるが、
相手には伝わりづらく、聞き返されることが増え、
申し訳なさがあった

いきなり標準語から鹿児島弁に変わったことで、

計算高く思われはしないか、
不愉快な思いをさせてはいないか、

親しくもないのに方言を使うなんて
失礼だと思われてはいないか、

複雑な思いだった。

鹿児島弁のみで生活すると心に決めたにもかかわらず、
「周りからどう見られるか」
を気にして標準語を喋ってしまう自分への敗北感もあった。

方言に関するサイトや論文など、何本か当たったが、
フォーマルな場や初対面の人には控えた方が良い
切り替えが大切であるなどという議論を目にしたとき、

とても窮屈に感じた。

TPOをわきまえて
自分らしさを塞がなければならないのか、と憤った。

周囲の反応

だが、私の周りの反応はあたたかだった。

「そっちの方が好きだよ」
「自分を持ってる感じがして素敵」
「同じ悩みを持っている人に寄り添うことができると思う」

いきなり標準語から方言に変わった自分に
何一つ怪訝な反応も見せずに、
背中を押してくれた。

人の顔色ばかり気にして生きてきた私は
自分らしく生きる勇気をもらった。

今後の展開

一週間が経ったが、
今後どのように自分の言語と付き合っていくかは
まだわからない。

たくさん考え、
一番自分がしっくりするように変容していくだろう。

これからも実験を続けながら
自分自身を観察していく。

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