見出し画像

「コ・デザイン」読んでたら、登山者こそ究極のデザイナーなのでは?って思ってきた話

初めまして、こもも(@momoko29893071)と言います。
初めてのnote投稿でドキドキしています。

普段は、大学で文化人類学とデザインの勉強、そして山登りに明け暮れています。もちろん研究フィールドは山です。

今日は、ゼミで不定期開催されているデザイン人類学勉強会の課題図書、「コ・デザイン」からいただいたエッセンスをもとに、登山者の実践をデザインの側面から紐解いてみたいと思います(堂々と宣言しちゃった😇)

書籍のレビューではない&書籍の一部を引用しているだけなので、内容を詳しく知りたい方はこちらから↓

温かい目と批判的な目、どちらも持って読んでくださると嬉しいです🍵
それでは


はじめに:著者の考えるデザインの概念

「コ・デザイン」の中で、著者の上平崇仁さんは、デザインの概念について、イヌー族の人形を例に挙げてこう解説しています。

① なんらかの困りごとをとらえなおし、より良い解を生み出している
  =(問題の発見と問題の解決)

② 意味を与えること

結構広くて抽象的ですね〜。この辺りの解説はすっ飛ばさせてもらいやす🙏

勉強会では、「文化人類学的に考えて、これまでコ・デザインを実践していた共同体や地域はあったのか」という問いが設けられていました。
↑のデザインの概念を(おそらくちゃんと)解釈したその時の私は、この問いに対してこう思ったのです。

え、そんなの、登山者が当たり前にやってることじゃーん!


登山道にあふれるノンデザイナーたちの道づくり

私の頭によぎったのは、登山者たちの「道をつくる・しめす」行為です。
登山に馴染みがない人は、
「いやいや、登山道って元から整備されてるんじゃないの?」
って思うかもしれません。それは、半分正解で、半分間違い。

現代において、何の道しるべもない山を登山者が歩くことはほとんどなく、多くの登山道は、国や地方自治体、民間団体やボランティアたち(=管理者って呼ぶことにする)によって整備されています(いつもありがとう)。

一方で、登山道というは、登山者が歩き、地を踏む過程でも形成されていくという側面も持っています。
今回私が取り上げたいのは、一度管理者らによってつくられた道を「登山者たちが使い、作り変えていく過程」での道づくりです。
文字で説明しても難しいので、実際の写真を交えながら説明します。

箸休めにお気に入りの山、雲ノ平の写真を(写真:My Roadshow - 登山ブログ)

登山者たちの「道をつくる・しめす行為」

道のつくり方の形態は様々なので、今回は代表的な下の3つのタイプを取り上げます!
(説明読むのが面倒な人は、最初の表だけでもいいかも)

①  木々や石の再配置による道しるべの形成
②  踏み道(けもの道)の形成
③  標識(立て看板・スプレーの印)の設置による道しるべの形成

まずは、3つの道づくりに関して、誰が、いつ・どこで、どんな目的で、行っているのかを改めて整理してみました📝
それぞれの具体的な説明はこの後に😌

ふむふむ….?分かるような分からんような


①  木々や石の再配置による道しるべ

私が月1くらいで登る山です(写真提供:YAMAP CHATAさん)

少々見にくいですが、上の写真は私がよく行く山の道迷いやすいポイントです。一見すると左側(赤)に進めそうですが、これは落とし穴で、正規の登山ルートでは、右に曲がらなければいけません。
ある日、いつも通り同じ道を歩いていたら、間違いの道(赤)を防ぐように、木が何本か倒れていました。
偶然か故意か?周辺の木々の倒れ具合からしても、おそらく誰かが意図的に置いたのだと思います。(誰かさんありがとう)
これは登山道では割と見られるもので、他にも石を移動させて間違った道を塞ぐことで、正規の道だけが視界に入るようにする道しるべの工夫の一つです。
逆に、正規の道の上にある倒木や石を道の端にどかして、より歩きやすく、分かりやすい道にする、なんて工夫もよく見られます👀

②  踏み道(けもの道)の形成

今年の夏に行った白山です(写真提供: 白山の自然誌 白山保存道の侵食)

道の形成という面では、人間(や動物が)正規の道以外の場所を踏み歩くことで、新たに形成される「踏み分け道(けもの道)」も大きな役割を果たします。これは、登山者にとって正規の道が荒廃して歩きにくかったり、近道をしたくなったりした時に生み出されます🧪

③  標識(立て看板・スプレーの印)の設置による道しるべ

またまた今年の夏に行ってきた鳳凰三山です(提供:鳳凰小屋)

最後は、標識(サイン)です。登山道の分岐地点には道迷いを防ぐために、立て看板を設置したり、岩にスプレーの跡をつけたりします。写真のように岩がゴロゴロして道がはっきりわからない場所では、この印があることが”ここはちゃんと道だよ””あなたは間違わずに進んでいるよ”というサインになります。

多くの場合、こういった道標は、行政や民間団体などの管理者側が用意することがほとんどですが、時には、登山者自身が遊び心を持ってサインを書き足すことがあります。

疲れた時にこのハートの印をみて元気をもらいました😌(写真:南御室小屋)


デザインする主体はだれ?コ・デザインの原点にして最先端をゆく「山の道づくり」?

上の表にもあるように、自分や他者の登山を安全に・楽しくさせるための道づくりは、登山者の抱える問題を解決し、石や印に新たな意味を持たせるという点で、立派なデザインと言っていいと思います。

では、登山道における道づくりは、「コ・デザイン」においてどのように分解されるのでしょうか。

デザインアプローチの方向性について述べた章では、デザインが、3つのアプローチに分けられ、さらに其々のデザインの中では「デザイナーの役割」が存在し、「人々の役割」と区別されています。

出典:コ・デザイン

山のデザインはおそらく、「当事者によるデザイン(by Overselves)」に分類されます。また、登山者の役割は、「創造する生活者」となるでしょう。
では、当事者によるデザインのデザイナーの役割=コーチングは、誰が担うことになるのでしょう?
登山者より登山道に詳しい、行政や民間団体、山岳ガイドたちでしょうか。もちろん彼らも立派なデザイナーだと思います。しかし、登山者の中にも、コーチングを行える登山者、つまりデザイナーの役割を果たす登山者が存在するのです。
例えば、複数人で山に登るとき、先頭を歩く人は大抵、山歩きに慣れている人です。彼らは歩きやすい道、疲れにくい道を見つけることに長けています。そして、後続隊の人々は、彼らをガイドとして、同じ道をなぞることで道を強化しているのです。

つまり、登山者が山を登る時、
・道を使う人も
・道をつくる人も
・つくる道を発見する(コーチング)する人も
一人の登山者、または一つの隊で補うことができるのです🥾

え、これって、職業デザイナーがパートナーになる「コ・デザイン」を通り越して、当事者たちが主体的にデザインすることに成功していないか!!??

とまで思うのです。

デザイナーとして登山道を取り巻く”問題”にどう向き合おうか

では、デザインを学ぶ者として、「登山道はデザインにあふれているから、登山者に全て任せておけばいい」と満足してしまってもいいのでしょうか。

いやいや、山登りにもコ・デザインの余地はまだまだありました!
それは、当事者(デザイナー)たちが複数のステークホルダーによって構成されており、かつ、そこで対立が起きている場面です。

例えば、

① 楽に歩きたい登山者 vs 登山道の荒廃を防ぎたい管理者

最後の行に「観察路から外れて踏み入らないで!」っていう注意書きがありますね
(写真提供:YAMAP くまごりらさん)

楽に歩きたいと思う登山者がつい造ってしまう踏み道は、登山道の荒廃防止や登山道周辺の植生保護を大事にする管理者にとっては厄介なもの。対抗策として、至る所に「正規ルート以外には踏み込まないで!」という看板を設けて、登山者を規制しようとしています


② 遊び心ある登山者 vs 道迷いをなくしたい管理者

自分で勝手にスプレーしちゃうのはダメなのね… ❤️マーク、結構好きだったけどなあ  

ちょっと誰かを笑わせたいと思ってアレンジした?スプレーの印は、道迷いをなくしたい管理者からすると厄介なもの。インスタのアカウントでは注意とともに怒りがぶちまけられています(私は山から帰って、これが良くないことだと知りました💦)

このように、自由度の高い登山者の行動は、ときに登山道の保全や安全の側面で管理者と衝突し、問題となります。
そんな「ステークホルダーが複数いて」「すぐに答えが出せない」ものほど、コ・デザインの出番ではないか!と思います。

管理者は単に、「規制規制!」と頑張らなきゃ守れないルールを設けるのではなく、登山者のついやってしまう行動や遊び心を逆手にとって、一緒に道を「デザインする」ことができないでしょうか。

ただ、ここですぐ”ほいっ!”と答えが出せるわけもないので、、
これは今後の研究テーマの一つにしておきます🙋‍♀️

さいごに

ノンデザイナーをデザイナーにしてしまう、最後の秘境、 山!

山に登っていると、どんな人でもデザイナーになれる瞬間がごろごろと溢れているなと感じます。(道づくりもしかり)
反対に、都市のように、ルールと規制に基づいて計画的に作られた交通路で、同じように主体的に道を創造する事ができるのだろうか、とも思います。デザイアパスなんかは公園にも見られますが、歩く人みんなが共同で道を作る機会なんてほとんどないはずです。

文化人類学者の川喜多二郎氏は、こんなことを言っていました🗣️

人間が自分の知恵や技巧に自信を持ちすぎて、何もかも計画/計算ずくで事を為そうとする。そういうビジョンは大したことはないので、そういう「計らい」の外に出ていく何かこそ、現代にもっと大事なことではないかということである。

出典:コ・デザイン

山という存在は、人間の都市化・効率化において、いつも障壁となる邪魔者でした。
しかし、だからこそ、人間の計画や計算という「計らい」から逃れられた地球の中では残り少ないオアシスなんじゃないか!と

もし「計らい」の外に出かけたくなったら、ぜひ山へ!
きっといつもとはちょっと違う世界の見え方がするはずです🤔
(結局山のへ勧誘になっちゃった)


批判・レビューいただけませぬか〜〜

こんな拙い文章をここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
厚かましいですが、読んでみての感想、批判、何でもいいのでレビューをもらえるととてもとても嬉しいです。

投稿後、4ヶ月経っての振り返り📝
大学で学びを深めている今、改めて読み直すと、とにかく詰めが甘く、ツッコミどころ満載…。でも、「とりあえずでも書いて投稿した」自分を褒めるために残しておきます…

今後も、デザイン人類学の分野に限らず、「道を作ること」や「自然の中で生きること」などの学びにおいて、たくさんの巨人の知恵を拝借していこう思います。
これよりもアップグレードした考察ができるよう、頑張る所存です🔥


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?