京都・仏光寺の掲示板に、弱き者、辛き者、苦しき者の心を慮る
京都の地下鉄・四条駅からほど近いところにある佛光寺の壁に、巨大な掲示板があります。
目の前は、車がひんぱんに通る高辻通り。
そのドライバーも、通り過ぎる際に、ついチラリと目を向けてしまいます。
なぜなら、どの言葉も、心にグッと刺さるからです。
ある月の言葉。
「心を込めて
草花を植え
怒りを込めて
雑草を抜く
草花のいのち
雑草のいのち
どちらも同じ
いのちなのに」
ハッとしました。
私の中に、「草花」と「雑草」を思う二人の人間がいたからです。
庭や家の前の側溝にこれでもか!というくらい雑草が生えます。
「今日こそ、抜くぞ」
と心に誓うのですが、面倒だから、腰が痛いからと延び延びにしているうち、
ボーボーに茂ります。
あんまり重労働なので、ついつい、
「コノヤロー!」と、声が出ます。
ところが、その雑草の中に、大好きなスミレが咲いている場所があります。
あんまり可愛いので、指先でチョイッと触れたりします。
5分、10分と見惚れます。
駅までの舗道や近くの公園にも、スミレが咲くスポットがあります。
それこそ、ワンちゃんの散歩の途中で、用を足させるような場所です。
ほとんどの人が見向きもしません。
通勤通学のため駅へと足早に通り過ぎていきます。
そんなスミレの花に、ちょっと悩み事があって辛い時は、
元気をもらえたりします。
スミレだけではありません。
ワルナスビ、ホトケノザ、ナガミヒナゲシ、ヒメオドリコソウ、ツタバウンラン、ネジバナ、オオイヌフグリ、マツバウンラン、ニワゼキショウ・・・。
いずれも、「雑草」とひとくくりされる草花ですが、愛おしくて愛おしくてたまりません。
ところが、ある日、それらの草花は、一斉に無くなります。
地域の人たちの清掃活動で、キレイに抜かれてしまうのです。
「ああ、サッパリした」
と思う私と、
「なんで?」
と思う私が心の中に同居しています。
まさしく、
「草花のいのち
雑草のいのち
どちらも同じいのち」です。
小説を書くとき、この心の中にいる「二人の私」の気持ちを大切にするようにしています。
それは、
雑草を抜く「マジョリティ」の私と、
スミレを愛する「マイノリティ」の私です。
弱き者、辛き者、苦しき者の心を慮ることが、小説の命と信じています。