見出し画像

自分の努力で成功したと思っているすべての人々へ

「わたしは自分の努力で成功した」そのように考えている人は多い。


 実際、私もかつてはそうだった。とりわけ高校卒業後の私は自分の努力をみんなに誇示していた。誇示するに値する努力をしたと思っていたからだ。
私は18歳の時、関西の有名私立大学に現役で合格した。その大学は、某国立大学ほどは偏差値が高くなかったけれど、女子が合格するには十分な水準の、つまりその大学への所属を誇っていい大学だった。
 私はその大学に合格するために、毎日努力を怠らなかった。高校3年生の時は予備校に毎日通い、一日12時間以上勉強した。夏休みも冬休みも返上で、お風呂に入っていても道を歩く時でさえも勉強した。

 そんな私の努力を、母親と父親は陰で支え、サポートしてくれた。母親は専業主婦だったため、予備校が夜遅く終わった際には必ず駅まで車で迎えに来てくれた。夜遅く女の子が一人で帰るなんて危ないから、と言って。また夏休みなどは毎日予備校に持っていくための手作り弁当を作ってくれた。
受験生なのだから当然のことであるが、私は高校3年の一年間は勉強以外のことを一切したくなかった。だから身の回りのことはすべて母親がやってくれていた。だって私は勉強しなくちゃいけないのだから。

 そんな努力の甲斐もむなしく、一度模試で志望校への合格判定がDになったことがあった。私は焦り、部屋でこっそり泣いた。母親はそんなとき何も言わずに私の好きなミルクティーを作って、部屋に持ってきてくれた。そして「あなたはできる子だから大丈夫」と言ってくれた。

 父親からは直接的なサポートはなかったけれど、私が予備校に通う費用はすべて文句も言わず、払ってくれた。私は受験勉強において金銭的な心配をしたことは一度もなかった。


 一方友人Aの状況は私と異なっていた。彼女には兄弟がいて、弟の受験時期と彼女の受験時期が重なっていた。「だから親が予備校代出してくれないんだよね」と言っていた。彼女は結局予備校に通わず独学で勉強していた。しかし私が見た範囲ではあるが、彼女はほとんど勉強していなかった。多分、たとえ予備校に通っていても彼女は勉強をしなかったと思う。彼女は多分、勉強することが好きでないのだ、つまり努力することが苦手なのだ。


 友人Aは私と同じ偏差値60程度の私立高校に通っていた。私は中学受験をしたので、中学からの持ち上がり組だったが、彼女は高校から入学してきた。親は共働きのようだったが、彼女の話では経済的に豊かではないらしかった。経済的に豊かでないにもかかわらず私立高校に入学したのは、「公立高校が第一志望だったのに、当日体調を崩して落ちた」から、らしい。彼女はその話を入学した当初、本当によく話した。「親に毎日恨み節言われてるよ」と彼女は笑ってたけれど、横顔は少し悲しそうだった。彼女は中学では塾に通っていないにもかかわらず、優秀だったらしい。


 結局彼女はろくに勉強することなく、言葉は悪いが偏差値の低い大学に進学した。最初は家にお金がないから公立大学を目指すと言っていたのに、途中で努力することが面倒になったらしい。「確実に入れるのに、努力するなんてあほらしいでしょ?」と彼女は言った。「それにうちの親、女の子がそんなにいい大学いかなくていいって、昔から言ってたから。」とも言っていた。
 私は努力することをさほど苦に感じていなかったので、彼女の発言はあまり理解できなかった。また、彼女の両親の発言はさらに理解できなかった。「今は男女ともに活躍できる状況が社会には用意されているのに、女子はいい大学にいかなくていい?何を言っているんだ?」と思った。


 大学に入ったあとも、彼女は生活費のためと言って、居酒屋でアルバイトばかりしていて、ほとんど勉強していなかった。
 一方、私は来る就職活動を見据えて、学業だけではなく、長期の留学、インターンなど様々な活動に挑戦した。親もそのための金銭的サポートは惜しみなくしてくれた。就職活動では大学で何を経験し、その経験から何を得たか、自分が成長したかをアピールしなくてはならない。そのためのネタになることは何でもやった。


 その努力の甲斐あって、私は大手企業に内定を得た。一方、友人Aは就職活動になってもアルバイトばかりしていた。その影響もあってか、内定を得るのに苦労しているようだった。結果、アルバイト先にそのまま就職した。その企業は激務らしく、なんでそんなところに就職するんだろ、と不思議に思った。まぁ彼女の実力では大手企業に入るなんて難しいだろうし、決まらなかったからしょうがないんだろうけれど。


 私は就職先でも努力し、営業として頑張った。結果が出ないこともあったけれど、同期と励ましあい、5年間一生懸命働いた。
 しかし、27歳になったころ、同期が寿退社した。私はそのころ彼氏と別れたばかりで正直焦りを感じていた。


 仕事は楽しかった。でも、27歳になって少しずつ今までのやり方が通用しなくなってきたことを感じていた。「若い女の子」というアドバンテージが薄れてきていたのだ。もちろん私は仕事に手を抜くことなく、一生懸命取り組んでいたと、思う。自ら若さや女を武器にしたことはない。けれど周りは勝手に私を「若い女の子」と解釈し、私が望もうと望まないとも、勝手に女の子として扱ってくれた。あらがって、「一人の社員としてみてほしい」ともいえたけれど、抵抗することに意味があるとは思えなかった。実際その役回りを演じることが、私の仕事の一つだと思っていたから。


 また、27歳になって責任のある仕事を任されることも増えてきた。今まで下駄を履かせてくれていた上司が急に「もう若手じゃないんだから、今までの貯金でなんとかしようとするな」と言ってきた。
しかし私はあまりにも「若い女の子」でいることに慣れすぎて、ほかの武器の使い方がわからなかった。仕事へのモチベーションが少しずつ下がっていることに私は気づいていた。


 その折に私は今の夫と出会うことになる。彼は私の大学時代の友人の会社の同期で、某銀行に勤めていた。正直なところ同世代の割には「稼いでいる」男性だった。ルックスも悪くなく、この人と結婚したいと思った。彼もそう思ってくれたようで、1年の交際期間を経て、私たちは結婚した。


 結婚するにあたって、私は会社を辞めた。彼は転勤が多く、結婚しても別居婚は嫌だと言っていた。私も嫌だった。くわえて私はその時点で28歳、結婚したらすぐに子どもが欲しかったし、仕事をしていないほうがいろいろと都合がいいと思った。だって、妊娠にはタイムリミットがあるのだから。
そして私たちは結婚し、子どもを授かった。


 しかし子育て中、私は壁にぶち当たった。それは私がどんなに努力しても、子どもは離乳食を食べてくれない、愚図って話を聞かない、言う通りにしないということだった。子どもは私の思い通りに動かない。むしろ努力すればするほど報われない。
 それでも私は一生懸命本を読んだり、インターネットで情報を検索したりして、努力した。しかし何一つうまくいかない。そのときはじめて、努力してもどうにもならないことがこの世にあることを知った。


 そんな折、わたしは街でかつての同級生であるAに遭遇した。私たちは久しぶりだね、元気だったと他愛もない会話をした。Aは私の子どもの方に視線を向け、「子どもできたんだね、おめでとう」と私に言った。その懐かしい声に私はなんだかほっとして、子育ての辛さを何年も会っていなかったAになぜかべらべらと話していた。私はきっと、娘と二人きりの生活でおかしくなっていたんだと思う。彼女は当初、私の口から出てくる子育ての愚痴を穏やかな顔で聞いていた。

しかし、私が次の言葉を言った瞬間、彼女の顔色が豹変した。
「あー。本当子育てって報われないよねぇ。どんなに努力しても報われないことあるって、私初めて知ったよ。」

彼女は私の言葉に、突然ハッと鼻で笑いながらこう言った。

「努力してもどうにもならないことがあること、今頃知ったの?おめでたい人生だったんだね。私はそんなこと、ずぅっと前から気づいてたよ」


 周りの空気がはっきりと変わった。私の前に立つAの顔まるで別人で、明らかな悪意を私にぶつけようとしていた。

「あなた、ずっと自分だけが努力している、ってそのことに酔ってたもんね。私のこと、努力してないってずっと断罪してた。努力してないからそんな結果になったんでしょ?自分が努力してないから悪いんでしょ?って。」
 

「自分が履いてきた下駄がどれほど高かったかって、あなた気づいてた?」


「最初から下駄を履かされている人間って本当そう。下駄を履いてることに気づかない。気づいても、私は好きで履いてるんじゃないんですって顔で、高いところから見下ろして、下駄を履いていない人間を批判してくるの。」


「あなたが努力をして報われたのは、努力をしなかった人がいたからなのよ。あなたが大学に受かったのも、就職活動で内定をとれたのも、だれかが落ちたから、誰かが内定をとれなかったからなのよ。それなのに、そういう人たちは努力をしなかったからだって決めつけて、その人たちを責めて自分の価値、努力の価値を誇示してくる。そういうの、うんざりなの。」


「最初からイスの数が決まっているのなら、誰かがあぶれるのは決まっている。誰かがあぶれるから、イスに座れる人がいるの。」


 私はその時はじめて、彼女のことを見下し、馬鹿にしていた自分に気づいた。しかし彼女は私が気づくずっと前から、自分が見下されていることに気づいていたのだ。
 自分の周りの空気は今までのものとは完全に変わっていた。私が今まで信じてきたこと、当たり前に思っていたことは一体何だったのだろう。私の思考は停止し、ふわふわした状態のまま、その場で立ち尽くしていた。その日はどのように家に帰ったのか、あまり覚えていない。


 後日、私は彼女が妊活で苦労していることを友人づてにしった。私は本当に彼女のことを知らなかった、知ろうともしていなかったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?