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「美しい顔」を読んだ

北条裕子「美しい顔」を読んだ。

この作品は今年の群像新人賞当選、そして芥川賞候補として注目され、のちに東日本大震災を扱ったノンフィクション作品を盗用したと取り沙汰され、話題になった。

この作品を読む前から、私はこの一連の騒動にとてつもない危惧を抱いていた。想像でもってフィクションを組み立てることを否定する風潮が出てきたら、それは文学にとってとても危険だと思ったのだ。

ノンフィクション作品の文面を丸写しでストーリーを組み立てるのはアウトだ。もちろん、ノンフィクションに関わらずアウトなんだけど。だけど、そこに書かれた事実を、フィクションに投影するのは、それは公表された事実という誰のものでもない情報となるのではないか。もちろん、個人的な体験の色合いが濃ければ、当事者への許諾が必要となる場合も出てくると思う。

震災に関するノンフィクションを読み漁り、そして構想を得て、フィクションを書く。このことを否定してはいけないと思う。けっして"やってはいけない"ことではないのだ。出版する際に参考文献を附そうと思っていたという作者の弁に、「それで筋は通したことになる」と私は思うのだが。過剰に作者が叩かれるのは(しかも被災者以外から)、作者の「若い女性」という属性への攻撃という一面もあるのではという気がしてならないのだが。どうなんだろう。

ただ、正直なところ、この作品が新人賞はともかく芥川賞候補になるほどのものか? というのは私の読後の感想だ。もちろん、多くの人が良しとする作品、私には響かなかっただけで、良いところはあると思うし、それを読み取れないのはむしろ私の力不足でもあるだろう。

「取材して書け」という批判には同調しないが、登場人物が高齢者以外はほぼ標準語というのには違和感があった。東北の女子高校生が普段どんなふうな会話をするのか、家庭ではどうなのか。方言と標準語の使い分け方などは取材してよかったのでは? と思ってしまった。そういうところで「ラクしてるな」というのは、正直とてももったいないと思うのだが。取材でリアリティの肉付けをすれば、もっと作品に深みが増すことになるのではないか。その手間をかける・かけないは、小説の評価を左右することでは、もちろんない。完全に取材なしで構築したフィクションでも素晴らしいものはある。だが、この「美しい顔」という作品、この題材に関しては、取材による肉付けはけっして無駄ではなかったはずだ。

また、クライマックスで、津波の犠牲となった母親の友人がすごい剣幕で「私」に、現実を見ろ! とまくしたてるところ。これも一人の人間にここまで「言わせる」のが、なんとも演劇的だ。

その瞬間、奥さんはくるりと振り返って、私の頬をパシャリとはたいた。

『美しい顔』

という場面など、演劇あるあるではないか。二人にスポットライトのあたった舞台から、効果音、その後の泣きのバイオリン演奏まで、演劇「美しい顔」が脳内で勝手に再生されてしまうのだ。私は、こういう一人の人間に主人公を導くヒントを語りつくさせてしてしまうのは、演劇では許されるご都合主義であっても、小説ではどうなの? と思ってしまうのだが。確かに、分かりやすいけど。そんなに分かりやすくていいの? 小説だよ? と思ってしまうのだが。どうなんだろ。これは私の抱く小説像(小説はこうあってほしいという理想像)がゆがんでいるのかもしれないのだけど。

と、かなりの辛口の感想になったけど、今現在、みんなに受け入れられる震災文学なんて、ないんだと思う。実体験をした人が書いたものでも、それに共感しない被災者はいるだろう。結局、みんなに受け入れられ、みんなに許される、そんな震災文学はない。「経験していないものを書く」。それを否定する人の想定する「みんなに許される震災文学」という虚像のほうが私には、よほど罪深く感じる。

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