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【喫茶店日記】 2月1日火曜日 春の光、額縁に入った絵と、バターの匂い。

2月1日 火曜日 

AM

今日は珍しく一緒に働いている由美さんと街まで出掛けた。由美さんとわたしは、大概どちらかが休みの日はどちらかが出勤なので、休みがかぶることはめったにない。でも今日は私は午後出勤で、午前中が二人とも休みだったので、出掛けることができた。

由美さんの家に車で迎えにゆき、ここ数日うすいさんの体調がさらに良くないという話を聞いた。由美さんは、たぶん新月だからだと思うんだよねと、真剣に、そしてわたしの心配とは裏腹、あっけらかんとそう言った。

今日は旧暦のお正月なのだと知った。今朝の日差しは、昨日までの青白い冬の光とはまるで違くて、どちらかといったら黄色っぽく、気温は低いがあたりが春めいて見えた。迎春という言葉を新年のお祝いに使うけど、毎年1月1日にその言葉はピンと来ない。今日はその言葉を使うには納得だった。旧暦の方が自然の摂理を合っていて、人々はそれを暮らしにとりいれて生きていていたんだなぁと思ったら、もっと暦について知りたくなった。由美さんはそういった類のことにとても詳しく、話し出したら止まらなくなる。

今日街に来た目的は、駅前にある画材屋さんで、うすいさんにプレゼントするあの絵を額装してもらうためだった。これは由美さんとわたしの秘密プロジェクト。うすいさんの愛車のパジェロがついに寿命を全うし、廃車になってしまったのを惜しみ、さらに最近体の調子も良くない彼を少しでも元気付けられたら、という二人の思いもあり、こっそりとうすいさんとパジェロのツーショットの写真を、絵描きのルイくんにお願いして絵に描いてもらったのだった。それを額装してプレゼントしようという計画である。

絵を額装してもらうのは初めてだ。その画材店の半分は額縁で溢れかえっていた。棚にびっしりと並び、入りきらずに溢れかえったものは高く平積みにされていたから、そのタワーを崩さないように気をつけながら見た。おじさんは、その額縁たち(しかもすべて箱の中に入っているから中身は見えない)の中から、絵のサイズや雰囲気、それから私たちの好みの感じも聞きながら、次から次へと「こんなのはどうでしょうか」と出してきてくれた。さらには台紙の色も選べるとのことで、実際に絵を置いて、組み合わせながら由美さんと選んだけど、おもしろいほどに額縁と台紙によって絵の雰囲気が変わるから驚いた。楽しくなってきて、それぞれに持ってきていたお気に入りの写真も額装してもらった。わたしが持って行ったのは、昨年の5月に写真家の栗田さんに撮ってもらった、カフェスタッフの集合写真である。白黒の写真なので、黒く塗られた木の額に、シンプルにオフホワイトの台紙を入れてもらった。額の中に収まるとまた佇まいが別人になる。これを家に帰って飾ることを考えたら心底嬉しくなった。額装する、というあらたなアートの楽しみ方を知れたこともまた嬉しかった。おじさんに本当にありがとうと伝えて、3つの箱を抱えて店をでた。

そのあと、私たちが大好きな街の喫茶店でお茶をした。わたしは、ロイヤルミルクティーと玉子サンドを、由美さんはフレンチブレンドと、パングラタンを頼んだ。パングラタンとは、食パンをおよそ10センチほどの超厚切りにしたものの、中がくり抜かれ、そこにクリームシチューが入り、上にチーズが乗せられ焼き上げられた大変満足感のあるトーストである。以前わたしが一人で来てそれを頼んだとき、食べきれずおばちゃんが残りを持ち帰り容器に詰めてくれたことを話したら、じゃあわたしにはちょうどいいね、といって由美さんはそれを頼んだ。登場したパングラタンを目の前にして由美さんは少女のような「わぁ」いう歓声をあげ、そのあと(これはしあわせなやつだぁ)と小声で言ったのが可愛かった。柔らかい光がレースのカーテンから差し込んでいてきれいだった。最初にチーズとシチューの部分をスプーンですくって食べれば、中身が溢れずに全部きれいに食べられますよ、とおばちゃんは言った。細身で小柄な見た目とは裏腹、超大食いの由美さんは、最後のクリームでひたひたでしみしみになった底のパンと、周りの皮の部分までペロリと平らげたから、その食べっぷりは見ているわたしのお腹も空かせた。帰ったら今日のお昼ご飯は焼きそばなんだ〜と由美さんは言った。

私は、人に自分の考えていることを言えないで終わってしまうことがよくある。不言実行タイプなので、あっためればあっためるほど言葉に出来ずに消えていく思いもある。でも、今日由美さんと他愛もない会話をしているなかで、自分の中にずっと寝かせている考えがなんとなく言葉になって出てきた。由美さんが、それに一緒になってわくわくしてくれたことがすごく嬉しくて、なんだか心がふわりと軽くなった。帰りの道は、さらに日差しはあたたかくなり、車のフロントガラス越しに広がる景色が、薄ピンク色の靄がかかっているかのようにうららかだった。あぁ今日もいい日だったなぁってまだ半日しか終わっていないのに、もうそんな気持ちになった。

早速、うすいさんに絵を渡しに行った。なんだなんだと、だるそうな身体を持ち上げて出てきたうすいさんは、えぇおめぇらこんなことしてくれてただか!と驚いてくれた。そして子供のようにじっと絵を見つめていた。自分が年老いた姿を見ていじけていたけど、その様子さえも子供のようで可笑しかった。おらぁのパジェロは外国に行ってこれからも活躍するだ、と少し誇らしそうに言った。どうやらエンジン部分は生きていたらしく、高価に買い取られ、どこか知らない国へ送られるらしい。うすいさんはやっぱりいつもより体調が良くなさそうだったから、心配だけど私はささっと帰った。


PM

出勤。今日は最近着ていなかった水色のストライプ柄のノーカラーシャツを久しぶりに着た。ここで働き始めたばかりのころ、仕事用に良さそうだなと思って買ってから本当によく着たから、もうかなりクタっとしている。そろそろパジャマに降格か…と思っていたところだったけど、その着古した綿のやわらかい肌触りが、今日の気候とふわふわした気持ちにはすごくちょうど良いと感じた。まだパジャマにはできないなと、カウンターでコーヒーを淹れながら思った。

一緒にバンドをしている常連のおじさんが来た。買ったばかりのレコーディングに使う機材を持ってきて見せてくれた。機械のことはよくわからなかったけど、今度レコーディングがてらうちでたこ焼きパーティでもしようと誘われた。ひとりの音楽をする人間としてわたしのことをみてくれていることが、まだ少し恥ずかしく、でも嬉しいって素直に思う。本当に面倒見のいい器用なおじさんで、先日わたしが滑って歪ませてしまった車を直してくれたが、今日は前のタイヤが凹んでるぞと言って直してくれた。やれやれ世話のやけるやつだ、といいながらささっとやってくれるから、それも愛だと受け取って、ついつい頼ってしまう。娘さんと私は同世代だからきっと、親心だなぁと感じる。

17時ごろから今日もまた常連陣でカウンターが満席になる。ちょうどそんな時間帯にひとりの常連さんが、解体されてしまうお家から回収してきたという古本たちをどさっと持ってきた。大きな長テーブルにそれらが並ぶとぞろぞろとカウンターのおじさんたちが集まってきて、ちょっと埃っぽい分厚い本たちを囲んで、卒業アルバムをみながら昔を懐かしむ同窓会みたいに、何やら楽しそうに覗き込んでいる。

その中の一冊、「私の英国伝統菓子」と書かれた古いレシピ本があり、私も気になっていたらマスターが、ももさんこれ、と言って開いて見せてくれた。裏表紙を開いたところに著者の写真があり「いかにもお菓子好きそうな顔してるなぁ〜」とマスターは言った。たしかに、と思った。そのおばさんがつけている、割烹着が少し洋風に変化したような、大きなフリルの入った真っ白いエプロンには、バターの匂いが染みついていそうだ。時々、バターたっぷりの焼き菓子が無性に食べたくなるのはなんでだろう。まさに今日はそんな気分だった。おやつにと思ってwalkersのショートブレッドを持ってきて、マスターと2人食べたばかりだった。

盛り上がるおじさんたちをよそに、窓辺の席ではみきおくんが静かに本を読んでいる。抹茶とチーズケーキという組み合わせが不思議だったみたいで、アップルパイか抹茶とホワイトチョコのチーズケーキ、どちらにするか迷い迷った結果、冒険します!と決意して、チーズケーキを選んだ。

彼は大学進学が決まっており、この春上京する。ついこの間までそこで数学の問題集を解いていた彼を思うと少し寂しいけど、これからが本当に冒険のはじまりで、たくさんの刺激的な出会いや学びが彼を待っているんだなぁと、想像するだけでわたしまでわくわくしてくる。「きっと垢抜けて帰ってくるんでしょうね」と、マスターはひとりケーキをつつく青年を眺めてぽつりと呟いた。奥の席でお母さんにおむつをかえてもらっていたまだ赤ん坊の彼のことも、マスターはこのカウンター越しに見ていたというから、本当にすごい。

お父さんが迎えにきて、軽トラに乗ってみきおくんは帰っていった。いつもお父さんは育てたお野菜をおすそ分けしてくれるが、今日はほうれん草をいただいた。思わず生で一枚かじったら柔らかくてえぐみがなく、甘くて感動した。帰ったらすぐ茹でておひたしにしようと決めた。

帰り道運転していたら、さっきカウンターで誰かが言っていたように、予報通りの雪がちらちらと舞い始めた。日中の春めいた陽気が幻みたいに思えた。そう簡単に冬はどっかいかないよなぁとたどり着いた家の玄関で震えていると、ふと足元に黄色い大きな水筒が置かれているのに気がついた。中にはたっぷりチャイが入っていた。あ、るりさんだ、とわかり早速お礼のラインをした。

なんだかすごく安心した。活動的な春もいいけど、まだやることに追われずに、永遠に続きそうな寒さのなかにもう少しだけ篭っていたいと思った。食後にあたためた甘いチャイを大きなカップで飲みながら、またショートブレッドをかじった。


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