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本とかドラマとか歌の感想など
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#エッセイ

ご飯を食べる その2

また振り返りになってしまうのだけれど、貼っておきたくなった。 またまたドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』を思い出して、 仕事のBGMがわりに観たりもしているからかもしれない。 ジェーン・スーの言うことや書くことは時に「んー?」にはなったりもする。 (でも結構読んでる) ヒグチアイの歌はいいなと思いながらも時にクドいというかあざといなぁにもなる。 (でもこの曲はすげえと思うジワッとくる) オジサン役者好きなくせに國村準はなぜかあんまりそんなに刺さらず「んー?」が多い。 (で

gem

『転がる石』という演歌がある。 旅芝居の舞踊ではテッパン曲、 つまりどこの劇団でも常に誰かが踊っているくらいの曲だ。 旅芝居特有の(股旅や任侠芝居のismから通ずる)ニヒリズムと自己陶酔、キメやアピールがしやすいええ感じのリズム、客席から掛け声をかけてもらえやすいええ感じの箇所、色々、「あー」なポイントだらけ。 せやから踊っていて気持ちよくなるんちゃうか。 観ていてもぽぉっとキャーとなれる曲なんちゃうか。 ぽぉっとはなれへん私は劇場でいつもへぇーっと観てきた。 私的初早乙女太

共に飛ぶ オスプレイとハヤブサと皆、皆と

ハヤブサ! ハヤブサや! ハヤブサやん! あほや。やっぱりこいつあほや。 ハヤブサ。 それは言わずとしれたFMWにいたレジェンドマスクマン。 空中技の不死鳥。 「お楽しみはこれからだ」 空中で事故を起こして頚椎損傷からの全身不随、リハビリ、からの、 2016年に亡くなった。 今でも語り継がれ、ファンも多い。 わたしの知人も彼に憧れてプロレスを始めた。 同じく、空中を飛ぶマスクマンだ。 彼をきっかけにハヤブサという名と存在を知った。 数日前、SNSである動画が流れてきて。

白とか黒とか『アンチヒーロー』とかバニラアイスとか

正しいとかなんだかんだとか生きることとか考えるようになったのは、 己の身内事(過去から今も)からなんだろうなと思うが、 嫌でも、吐くほどわかりだしたのは、 やはり、旅芝居・大衆演劇、 「生きることそのものの舞台であり芸能」を観て、観出して、観続けて、である(!) そんなこんなでこのnoteにも、 何度か、特に意識したりしなかったりしながらせずに書いてきたりもした。 「勧善懲悪なんて、無い」「いや、ある」「絶対に、ある」 「けど、だから。だから、けど」 と、いう人間にとって、今

花と花瓶 ある2人の歌手の顔

「人生はその日その日の積み重ね」 近所のお年寄りが口にしたのを聞いて肚の中でツッコんで笑った。 「何? みつを的な?」 でもその夜寝る前になって「うーむ」「ほんまやなあ」なんて。 ということを、思い出したのは、テレビに出ていた2人のおじさん歌手を見てのことかもしれない。 森進一。 「こわ!」 なんなんや、あの顔。今の顔。 人の容姿をどうこういうことはいいことではない。とはわかっている上で。 わたしはこのひとの歌とこのひとにずっと興味がある。 五木ひろしより森進一派。歌に物

雨の中 『羅城門に啼く』と『侠』

豪雨の中、野暮用で1時間歩かないといけなかった昨日昼前。 川沿いの国道沿いを歩いていたら 車やトラックがびゃーっと走ってその度にザバーッ。 無になった。 泣けてくるし怒りが湧いてくるし でも歩かざるを得ない辿り着けないことには。 ずんずん歩きながらザバーッをまた、またまた、浴びながらも、思った。 たぶん車に乗っている人は攻撃とか加害しようとは思ってもいない。 悪気はない。 あちらもただ仕事や目的のために走らせているだけでしかない。 雨の中の運転だ。あちらも危険だろう。 でも速

種と翼 わかりやすさや考えることや色々をテレビドラマに思う

まとまらないままに書きたくなった。 さいきんのテレビドラマを観ていてだ。 きっかけは朝ドラからだったような気もする。 観ていますか。 SNSでは大絶賛の嵐だ。 うんうん。よくわかる。 でもわたしは初回から観始めて数話進んでいくうちに 「うん」と共に「んー?」を感じるようにもなった。 いい意味で「わかりやすい」んじゃないか、と。 「みせたい側を引き立てるために わかりやすいわかりやすすぎる役割というか設定をされている」 っていうといいかなあ。 それがきっと「良い」のだろ

2054 ドラマ『不適切にもほどがある!』にありがとうを言いたい

ドラマ『不適切にもほどがある!』については何度か書いた。 回を重ねるごとに、違和感と「これはあかん」が重なりもし、 入り込めなく集中できなく(集中して楽しめなく)なった。 最終回を「どう終わらせるのかな」っていう期待はあったのだけれど、 「んー………?」「うんうん」「なるほどな」「でもなあ」 だからもう一度観なおしたらほろりとはなりもしたけれど、 いろんな人の気持ちを考えて「どうなんやろうなあ」となったのもほんとの気持ち。 悪い意味でもいい意味でもいい意味でも悪い意味でも 「

The Aerial Assassin サンキューマタネウィルオスプレイ

金網の中でのごちゃごちゃ血まみれぐちゃぐちゃ試合をただ観た。 直接会ったこともないその選手のことを勝手に書きたい。 入団したころから観ていた訳じゃない。 会場に足を運んで生で観たことだって両手で数えるほどだ。 新日本プロレス在籍としての最後の試合も大阪だったけれど行かずに配信で観た。 いつの間にか気付けば目で追っていた。 むちゃくちゃだからだ。 なんでそんなに身体張るねん。 知人は見るたびに言っていた。 「やさしいなあ」 どんな選手のどんな技もやりすぎくらい受けまくる

凪良ゆうの『汝、星のごとく 』 「こうである、ことが当たり前」なんて、ない

人は誰しも「思い込み」を持っていると思う。 大きなものから小さなものまで、 言うなれば 「こう、と、されている、ことを疑いすらしないこと、かーらーの固定」だろうか。 その「かーらーのー固定と凝り固まり」が、 誰かをしんどくさせたり誰かにとっての暴力となりもしかねない。 と、考えたことはあるだろうか。 「こうであることが当たり前of当たり前すぎて疑いもしない」 その向こうには、「ではない」「そうなれない、出来ない」ことやものやひと、も、「ある」「いる」。 その絶望や苦しみを考え

不適切とモヤとスタート地点 ドラマ『不適切にもほどがある!』を再び考える

ドラマ『不適切にもほどがある!』が、結構叩かれているみたい。 「せやろな」「せやな」と思った。 1話目を観たわたしはうれしかった。 笑ったり笑ったり、なつかしさを感じたりもしていたから。 時事ネタがではない。 「よく観ていた頃の小劇場」感、がちゃがちゃごちゃごちゃ生き生き感、ギャグやオフザケを散りばめながら「言いたいことを伝える」を感じてだ。 でも、かな、だから、かな。でも、かな。 2話目くらいから「ん?」を思い始めた、「ん?」と「んー?」だ。 「ああ、これは、叩きがいがある

アイドル 紅白の蘭ちゃんとおじさんたちと恋と愛と豊

紅白歌合戦の伊藤蘭を観て涙がぶわーっと出ていた。 正確に言うと違う。 紅白歌合戦の伊藤蘭とその応援さんたちを観て涙が止まらなくなった。 あたりまえだが世代じゃない。 でも懐メロ番組に長年も長年かかわってきたのもあり、昭和歌謡には詳しい。 キャンディーズ? 好き。拓郎も好き。って、わたしのそんなことはどうだっていい。 紅白は毎年観る。 でもこの数年のわたしの怒りはMAX of MAXだった。 歳をとったからだ。 違う。 あきらかにネット民のバズりを期待してる感を感じるか

それらはコインの裏表 何とかならない時代のシェイクスピアや近松

今朝「おすすめされていた作家さんの本を買いました」というメールをいただいて、なにかが繋がったような、不思議な気持ちになったのは、 ここ最近、このnoteを思い出していたからかもしれません。 ちょうと一年前に書いたものです。 振り返りネタが続いてしまっていますがサボっている訳ではない(笑) 赦しと復讐とコインの裏表のこと。 シェイクスピアとか近松とか己のことや、 いくつかの本と舞台の話とかと併せて、なんか憑かれたような気持ちで書きました。 ちょっと長いけど、ほんま、いろいろ

声 声なき祈りを聞き分け、形なき心の気配を感じ、結びつくこと

年をまたいで読んでいて読み終わった本が印象深かった。 昨年訪れた書店の〝新聞各紙の書評欄で紹介された本〟コーナーに 1冊だけぽつんと置かれていて何気なく手に取った。 タイトルだけをみて読み始めると「ん?」かもしれない。 〝その本〟〝それだけの本〟ではない、なかった、から。 研究者であり小説家にもなった著者による調査や研究の内容と共に「私」の話が語られる。 というか、あちこちに書かれたものがこの1冊としてまとめられた。 でも、ばらばらな話がまとめられている訳でもない。 この1冊