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そして二条は追い続ける:『とはずがたり』感想

 大学受験期、模試の古典で読んだ後、どうしても内容が心に引っかかった物語があったんです。
 模試の解説文で物語のあらすじを読んで、何だこれは!?全部読んだら絶対面白いじゃないか、と思いながらも、3年が経過。
 最近ふと思い出し、読んでみよう、と思い立ったのが、後深草院二条『とはずがたり』(佐々木和歌子訳、光文社古典新訳文庫、2019年)です。鎌倉時代の、宮廷周りの物語になります。

あらすじ(自分なりに!)

 14歳の二条は、兼ねてより可愛がってもらっていた「御所さま」こと後深草院に、正式に仕えはじめる。「御所さまの世話役かつ愛人」という複雑な立場で華やかに暮らすも、1年後に父親が亡くなり、血縁という後ろ盾を失う。もはや御所さまからの愛だけが自分の居場所となった二条に、若さと美貌を求め、多くの男が言い寄ることになる。どうにもならない人間関係など、この世の虚しさに恨みを募らせた二条は、出家し仏道に入ることに憧れはじめるが…。



↓以後、物語の最後の内容までネタバレあります↓


感想①素直で強い、心の揺れ動き

 『とはずがたり』で好きなところが、二条があっけらかんと、自分の心の推移を語るところです。
 例えば冒頭。それまで自分を子どもとして見ていたはずの御所さまと、いきなり関係を持つことになった二条。初めは「自分はそんな風に見られていたんだ…。」と鬱々としていた二条でしたが、ずっと御所さま嫌だ嫌だと考えているうちに、次第に「あれ?御所さまとのこんな関係も悪くないかも…。」と心が揺れ動いていきます。この微妙な心境の変化がリアルで、現代に生きる私たちにも通じるなあ、と思いながら読んでいました。
 次第に二条には数多くの男が言い寄ることになります。初めは拒む二条ですが、一度関係を持ってしまうと「やっぱり…いいのかもしれない」と徐々に男に惹かれていって…。
 作中で自分のことを「惚れっぽい」と言っていた二条ですが、私も惚れっぽい気質なところがあるので、何となく共感できてしまうのです笑

感想②したたかに生きながらえる二条

 『とはずがたり』では、二条の14歳から50歳近くまでの半生が、二条自身によって綴られます。
 全編読めばわかる、まさしく人生ハードモード。不幸という不幸が、二条に重なり続けます。「二条の子」として育てられない我が子、宮廷内の陰謀で権力闘争に負ける身内、身も蓋もない噂、落ちぶれていく我が身…。二条の心も、次第に荒んでいくことになります。
 しかし、そこで泣き寝入りをしないのが二条の強さ。彼女は決してか弱いだけではありません。
 例えば、御所さまの弟である「法親王さま」が、仏道に入っているにも関わらず二条と関係を持ったとき。バチあたりだろうけど、なんかいいなあ…と思った二条は、なんと自ら何度も法親王さまを求めにいきます。強い…!
 そして、宮廷生活を送る二条の様子、その節々に、どう考えても「わがまま」じゃない…?と思うような描写があります。何度も出仕をお休みしたり、御所さまを冗談でも叩いたことを咎められると「私だけの責任じゃないし!」と言ったり、上皇同席の遊びで下級の立場にみなされたのが嫌で、
数ヶ月失踪
したり…。その態度が問題視されて不都合な立場に置かれても、二条は世を恨みながらも、全く態度を変えません。
 私はこの本を読むまで、中世の女性はもっとか弱く、男に求められるだけ求められて泣いて過ごすのだ、と考えていました。しかし、二条がその固定観念を見事に打ち砕いてくれました。中世の女性が、こんなに「か弱さ」と「したたかさ」の両方を併せ持っていたなんて!

感想③煩悩など拭えない、そして彼女は追い続ける

 それでも、二条は次第に仏道に入ることに憧れはじめます。仏道に入って、世の喧騒や煩悩から逃れて、心穏やかに過ごしたい。やがて、陰謀により宮廷にいられなくなった、という経緯もあり、二条は念願かなって出家します。そして、憧れの西行のように、全国各地を歩き回ることに。
 しかし…。それで憧れを叶えることができたか、と言われれば、全くそうではありません。むしろ更に煩悩にまみれていきます。愛していた御所さまのことや、都での華やかな暮らしを、結局二条は忘れられません。
 二条が40半ばになった時、御所さまが亡くなります。一介の尼僧という立場で、葬式に立ち入ることができない二条は、裸足で棺の乗った車を追いかけます。この描写が圧巻。その後も、御所さまに向けた写経の費用捻出のために、父母の形見を売りに出すなど、最後まで御所さまへの思いに取り憑かれた二条なのでした。

 私は、『とはずがたり』のテーマは「追う」ことにあると思います。
 二条は、ずっと幸せを追い求めます。御所さまに愛されること、出家して仏道に入ること、出家してからは都の煌びやかな暮らしに戻ること。
 そして、その心情としての「追う」が、行動として現れているところに、この作品のダイナミックさを感じます。宮廷から失踪して寺に向かうこと、出家後に全国各地を歩き回ること、御所さまの棺が乗った車を、裸足で追いかけること、そして、何かにせき立てられるように、こうした自身の境遇を書き連ねたことも。
 二条は、煩悩にまみれています。そして、それは本人も自覚した様子。このことを開き直ったうえで、なおも追い続けているのです。二条の執念に、胸を打たれました。

解釈:なぜ二条は追うのか?

 長い半生を綴った物語は、二条自身により「それにしても、なんで私は問われてもいないのに書いているの?」という問いが提示されて終わります。
 なぜでしょうか?飾ることなく、自分の醜い面まで、とことん晒して書き尽くしたのは。
 私は、二条は二条自身のために書いたのだと思います。加えて、二条が追っていたのは御所さまでも仏道でも都でもなく、二条自身だったのではないか、とも思うのです。
 御所さまに愛されたい自分。仏道に入り、来世で幸せになる自分。都でまたチヤホヤされる自分。不幸が重なり、次第に落ちぶれていった二条は、そんな幸せの影を追うように、書き終わったら影が掴める、とでもいうように、現代の文庫本にして400頁超の文章を書き綴ったのではないか、と考えます。
 そう考えると、やはり二条の執念は恐ろしく、かつ羨ましくもあります。「幸せな自分」を追い求めて、ヒトはここまでできるのか、と。

 『とはずがたり』が書かれてから700年超。念願の仏の国に行くことができた二条は、果たして幸せを掴めたのでしょうか。それとも輪廻して、今もどこかで「幸せな自分」を追っているのでしょうか。

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