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『孤島のキルケ』(5)

 湧水ゆうすい目指して軽快にしろばち山を登っていくとむに対して、私は葦《あし》に幾度も足を取られながらよたよたと歩いた。
 とむは呆れたと言わんばかりにそっぽを向くと、どんどん山頂へと進んでいく。
 とむの立派なしっぽを頼りに、私は低湿地を進んでいった。
 息が上がり、とむの姿が遠くなるにつれ足元の泥砂が小石に変わって行った。
 
 どのぐらい歩いたのだろうか。
 急に開けた視界と背中から香る潮風に私は振り向いた。
 海岸線に向かうなだらかな傾斜は、まるできるけえのスカートのように優美に広がり、紺碧《こんぺき》の海は彼女の胸元に光る宝石のようだった。
 私はぼうっとして、海と山の稜線りょうせんの織り成す風景に見惚れていた。
「痛いっ」
 ぼんやりしていた私にしびれをきらしたのか、先に湧水へと進んでいたはずのとむが私の背中に飛びついてきた。
「すまん。ぼんやりしている場合じゃなかったな」
 胡乱うろんな目で私を見上げるとむに謝ると、私は足裏に出来たマメの痛みをこらえながら湧水へと急いだ。
 
 湧水はとむの案内なくしてはたどり着けそうもないほど、かすかなものだった。
 山の岩場の影から湧いた水は、ひっそりと地面とこけを濡らしていた。
 私はかたわらの岩に腰掛けて弁当を広げると、水筒の茶を空にして湧水を入れようとした。
挨拶あいさつもなく勝手にここから水を取ろうとは。全く礼儀のなっておらぬ男ぞな」
 私の頭上を覆うようにぬっと影が差し、鷹揚な、しかし威厳のある老爺の声が聞こえてきた。

「ここまでたどり着いたのはぬしが二人目ぞ」
 私の持つ水筒にそっくりな水筒が空中から飛び出し宙に浮いたかと思うと、なみなみと水が注がれ私の手元に渡された。
 声の主は綿菓子のようにふわふわと宙に浮いていた。
 姿形も作りかけの綿菓子のようにとりとめがない。
「一人目がそこのトミー・ビスよ。なあトム」
 オオヤマネコの姿のトムは岩場に寝そべって、一度だけ尻尾を打って返事をした。
 
「あの娘のせいでこんな所にまで来させてしまって済まないね。昔からあの娘には皆迷惑を掛けられっぱなしでね。困ったものだよ」
 私は困っているとは到底聞こえないのんびりした声の主に苛ついた。
「きるけえの知り合いなのですか。知り合いの不始末は知り合い同士で片付けてください。こちらこそとんだ迷惑だ」
「いやいや、キルケはあの娘の被害者だ。そう悪く言わないでおくれ」
 綿菓子のようなふわふわした何かが、しゃくに障るぐらいにのんびりとした口調で応じた。
「では誰のせいでこんなことになっているのです。あの娘とは」
「君も会っただろう。気まぐれで尊大で、だけどもとても美しい娘。金星の現身うつしみ
「いしゅたるのお知り合いで」
 私は神を自称するいしゅたるの知り合いに頭を下げた。
「ワシはあの娘とは古い付き合いでね。あの娘の父親の事もよく知っているが、あの娘を止めるのは父君でもなかなか難しい。ワシらは昔からあの娘にはほとほと困らされたものだよ」
 綿菓子のようなふわふわした何かは、表情が見えそうなほど深いため息をついた。
 
「ではあなたはいしゅたると同じく異教の神なのですか」
「異教も何もワシはこの世界のどこにでもおるよ。それを各地の死すべき者たちが好き好きに名前を付けて拝んでおるだけのことじゃ。ワシはさしずめ『水神』のようなものかのう」
 水神ならば、綿菓子のような見た目は雲の表れだろうかと私は思った。
「ならば畏れながら水神様に申し上げます。どうか私たち囚われの者が、それぞれの地に元の姿で帰れますようお助け下さい」
 すがれるものなら、この際いしゅたる以外ならば神でも化け物でも良かった。
 私は自らを水神だと名乗る綿菓子のようなふわふわした何かに向かって、深々と頭を垂れた。
「済まんのう。昔のワシなら何とでもしてやれたのだが、ワシはあの娘との飲み比べに負けて力を奪われてしもうて。水場の守りならしてやるが、それ以外はめっきり力がそがれてな。いやはや面目ない」
 自称水神は、間の抜けた声で謝った。

「ではせめていしゅたるかきるけえの弱点を教えては頂けませぬか」
「教えてやっても良いが逃れるのは難しいぞ。トムも上手く逃れかかったがあと一歩の所で逃れきれなかったのだ」
 とむは聞いているのかいないのか、柔らかな産毛うぶげに覆われた腹を上下させながら横たわっていた。
 
「キルケはその昔イシュタルの神殿に仕えておった。イシュタルは大層勝気な娘で、ワシ等神界の面々も大層困り果てておったのじゃ。あれは天を統べるいと高き神の愛しであると言うのに、それだけでは飽き足らず何でも欲しがる癖があってな。ワシのような神々と取引したりだまし討ちしたり言いくるめたりして、神々の力を次々と手に入れた。そのうち手に負えない強さになってきて父君ですら扱いに難儀するようになって、それで」
「それと、男達がこの島に囚われ獣となり果てるのに何の関係が」
 私は余りにのんびりした話し方にれて、自称水神の言葉を鋭くさえぎった。

「まあそう焦らずにゆったりと構えるが良い。ここは時間は『ある』と思えばいくらでもあるからの」
 死すべきものの不服などどこ吹く風で、自称水神はゆっくりと話し続けた。
「あれは神々の力だけでなく、欲しいものは全て手に入れねば気が済まぬ。男もまた収集癖の一つでな。いしゅたるにとって男とは流行りの装身具かつおもちゃの一つにすぎぬのよ」
「流行りの装身具、ですか」
 私は言わんとする事が分からず首をひねった。
「子供が犬や猫の子を親にねだるようなものと言えば分かりやすいかな。いざ手に入ってしまえば自分で世話もせず、虫の居所が悪ければ蹴ったり寒空で凍えさせ、大きくなれば飽きて新しいものをねだる。それを男にもするのだ」
 すっかり事情が見えた私は、うんざりしながら相槌あいづちを打った。

「若い男に対していつもそんな感じであったから、イシュタル神殿に祈りを捧げた名だたる勇者英雄の類ですら、いつからかイシュタルの誘いを退けるようになったのだ」
 自称水神は間の抜けた声でのんびりと話し続けた。
 「英雄を生きたまま皮をぎ火にくべ、動物に変えて鞭打むちうっては泥水をすすらせたりと、イシュタルはありとあらゆる残虐な行為を嬉々ききとしてしておった。まあ良くもあれほど残忍な仕打ちを考え付くものだと呆れるばかりであったが、きるけえにはその力の一分が引き継がれているから、男が獣に成り果てるのも道理よ。虐待されぬだけマシだと思うしかないな」
 神を自称する存在に『虐待されぬだけマシ』と言われてしまえば、救いの道も無いではないか――。
 私はがっくりと肩を落とした。

「イシュタルは気に入った男が出来れば我が物にする。とは言え神であるイシュタルが死すべき者である男を相手にする訳にはいかぬ。力の質とけたが余りに違いすぎて、男が壊れてしまうからな」
 確かにいしゅたる自身も、同じ事を私に告げた。
「だからイシュタルの代わりに神殿巫女しんでんみこに相手をさせるのだ。高位の神たるイシュタルを身に宿すに足る器の者しか神殿巫女しんでんみこにはなれぬ。ゆえに彼女たちは勇者英雄の相手が出来るし、イシュタルはそれを以って男達を手に入れる事になる」
 背をのけ反らせてとむが大あくびをしたのがちらりと目に入った。
「中でもキルケは神殿巫女の中でも飛びぬけて強い力を有しておった。当時の名はキルケでは無いが、仮にキルケと呼んでおく。勇者英雄の類もイシュタルの力欲しさに神殿巫女とちぎりを結ぶようになった。その風習が広まりイシュタルの勢力が頂点に達した頃に、キルケはイシュタル神殿に仕える事になったのだ。もっともその頃にはイシュタルの残虐な仕打ちの数々も世に広まりつつあったのだがな」
 そこまで言うと、自称水神はふうっと長い息を吐いた。

「ちょうど間の悪いことに、キルケが神殿に上がった頃に勇者の中の勇者がイシュタルの前に現れたのだ。ウルクの統治者であるギルガメシュと言う若い王だ。イシュタルは大層そやつを気に入って求婚したのだ。それも神殿巫女をかいさず直々じきじきにだ」
「しかし死すべき者といしゅたるは、直接まぐわう事は出来ないのでは」
「ギルガメシュは神族の血を引いているからな。一旦はイシュタルの申し出に興味を示したギルガメシュも、イシュタルが寵愛した男どもの末路を聞いてからと言うもの頑なにイシュタルを拒んだ」
 私のもっともな疑問はすぐに氷解した。

「イシュタルは、怒りと屈辱くつじょくに打ち震えた。そしてイシュタルの父君である天空てんくうを司るいと高き神に、神を侮辱ぶじょくするギルガメシュを滅ぼすべしと説いたのだ」
 いしゅたるの呪いは残虐非道ざんぎゃくひどうなただの悪趣味だと思っていたが、怒りの奥にある苦しみと悲しみと孤独を、きるけえに投影とうえいしただけなのかもと思い直した。
「もちろん父君は、イシュタルの方こそ死すべき者たちの守護者にふさわしい態度を取るようにとさとしたのだ。だがイシュタルは理も分別もはなから持たぬ。ついにはイシュタルは父君の所有する天の牡牛をねだって、赤子の如くひたすら泣き出した。その声は海を割り山は火柱を上げ、ついには父君が座す天の玉座を揺るがした」
 天空を司るいと高き神なら、神々の権能などすぐにでも奪えるだろうに、なぜ残虐非道の限りを尽くす娘神を許すのだろうか――。
 私はかすかな疑問を抱いたまま、黙って話を聞いていた。
 
「イシュタルの機嫌を取るために、父君は仕方なく天の牡牛をギルガメシュが統べるウルクへ差し向けさせた。天の牡牛はギルガメシュの統べるウルクを破壊する程に恐ろしいものであり、沢山の死すべきものがその命を絶たれた。だが天の牡牛は御使いで、決して殺す事まかりならぬ。それがおきてだ」
 火のついたように泣き叫ぶ赤子は、何としてでも泣き止ませたいのは良く分かる。
 私は天空を司るいと高き神とやらをずいぶん人間臭く感じた。
「ギルガメシュは領民りょうみんを襲う天の牡牛を殺す事をためらっていたが、無二の友であるエンキドゥの励ましもあり、ついに二人で協力して天の牡牛をほうむり、ウルクには再び平和が訪れた」
「それで引き下がる存在ではないでしょうね、いしゅたるは」
「左様。ますます怒り狂ったイシュタルは、ウルクの城壁に降り立って聖なる呪いを掛けようとした。だが、討ち取った天の牡牛の腿肉ももにくをエンキドゥに投げつけられウルクの城壁から転げ落ちた。そしてイシュタルはウルクを去った」
 エンキドゥのダメ押しは神相手に随分な仕打ちだが、天の牡牛によって最愛の人や家族を奪われた民から見れば喝采かっさいの嵐であっただろう。
 その歓喜の声を背にして、自身が守護していた土地を離れざるを得なくなったイシュタルの屈辱はたやすく想像できた。
 
「話はそれでは終わらない。主不在のイシュタル神殿に上がったギルガメシュは、当時いち神殿巫女しんでんみこを務めていたキルケとまぐわったのよ」
「いしゅたる不在の神殿でまぐわったと言うことは、きるけえは神殿巫女の務めとしてではなく、きるけえ自身としてぎるがめしゅと体を重ねた事に」
 私はぎょっとして思わず口をはさんだ。
「ご名答」
「それでいしゅたるはきるけえに呪いを掛けたのですか」
 私が得心とくしんしたように頷くと、直接的な原因はその後にあると自称水神は語った。
「ギルガメシュは元々神族の血を引いていたのだが、天の牡牛を殺した事が引き金になって死すべきものの定めを歩む事となった。ギルガメシュがその長い人生を終えた頃にはイシュタルは既に神殿に戻っており、キルケは一の神殿巫女として神殿に上がった時と変わらぬ姿のまま務めを果たしておった」
 私は自称水神の話を黙って聞き続けた。

「ギルガメシュの子であるウル・ヌンガルが後を継ぎ王となったのだが、その子供たちの中でもとりわけ仲が良い二人の王子がおったのじゃ」
 相も変らぬのんびりとした口調で、自称水神はなおも話し続けた。
 

 ※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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