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『孤島のキルケ』(9)

 気が付くと私は干潮かんちょうの浜辺にいた。
 黄金色の毛並みの犬が私の腹の上に覆いかぶさり、とむが心底軽蔑けいべつしたような顔で私を見下ろしている。
 あれだけぎらついていた太陽は急速に赤みを増しはじめ、ハシボソガラスのけたたましい鳴き声が山の方角から聞こえてきた。

「済まない」
 ようやくそれだけ言うと、とむは右前足で私の額をぐりぐりと押した。
『ニヘイさんよう。あんた本当にせっかちな野郎だな』
 私は弾かれたようにとむを見上げた。
『俺の言葉が分かるか』 
 私がこくこくとうなずくと、とむは額に置いた右前足を退けた。
 何事か言いたそうにしているが、途端にとむの言葉が聞こえなくなった。 とむは再度私の額に右前足を置いた。
『溺れかかったから超感覚が高まったみたいだな。まさかいきなりあんな荒療治をさせるつもりはなかったが。獣体レベルにはまだほど遠いが、とりあえず少しはマシか』
 私はとむの意図を読み違えていたらしいが、結果的には潜水艦の操縦に必要な超感覚とやらが少し開発されたようだ。
『フランソワに助けられたんだ。礼を言っとけよ』
 私は黄金色の毛並みの犬の背を撫でながら礼を告げた。
『礼には及びません。キルケ様のお客人に万一の事があってはなりませんから、だってよ』
 のろのろと起き上がろうとする私を、二頭の元人間の獣達が抑えつけた。『ちょっと待て。今のあんたと意思疎通いしそつうするには、俺の前足をあんたの額に置く以外方法が無い。動くな』
 とむの言葉に私は大人しく従った。
『今日あんたにやって欲しかった課題は、海水中で目を開ける訓練と俺の言った方向に顔を海中につけたまま歩く訓練。まあこれは明日改めてやろうぜ。それからこれから先、昼飯の握り飯の具とあのくそったれ女が着る服の色を毎朝当てろ』
 他にも色々あるんだがとりあえずはここからな、と言うととむと黄金色の毛並みの犬は私を解放した。

 改めてふうと息をついて起き上がると、私は岩の上に置かれた着衣を手に取った。
 着衣は乾いていたものの潮を吸ってゴワゴワとし、所々湿ったままだった。
 きるけえなら新しい着衣を持ってきて私のそばにいそうなものだが、どうやらきるけえはこの騒動に気が付いていない様子だ。
 海豚いるかの顔をした男あたりが私の着衣を脱がせたのだろうと思いながら、潮を吸ってごわついた服に袖を通した。
「行こうか」
 私は二頭の獣に告げると、あかね色に染まる海を横目にきるけえが待つ館へと歩を進めた。

 館に戻ると、いつも玄関で出迎えるきるけえの姿が無かった。
 私を代わりに出迎えたのは猫の耳を持つ女達であった。
「どうした?」
 嫌な予感がする。
 私は湯を使おうと廊下を歩き始めて、とむをちらりと見た。
 いつの間にやらとむは姿を消していた。
 代わりのように、黄金色の毛並みの犬が私に着いてきていた。
 彼はとむの話によればきるけえには絶対服従らしいので、きるけえから私を助けてくれるとは到底思えない。

 潮をふんだんに浴びた全身を清めたいのはもちろんだ。
 しかしきるけえがまた湯屋にやってきて思わぬ欲を掻き立てられては、どこまで理性が保つか知れたものではない。
 いや、きるけえは私に何が起こっているのかを分かった上で、素知らぬ振りであえて湯屋で待ち受けているのかもしれないと私は考えた。
 一時の欲に負けて獣になるなど、まっぴらごめんだった。
 獣になるぐらいなら、潮だらけの体でも構わない――。
 私は猫の耳を持つ女たちを振り払うと、一目散に玄関めがけて廊下を逆走した。

 黄金色の毛並みの犬が鋭く吠えた。
 猫の耳を持つ女たちが追いすがるが、切羽詰まった私の脚力が勝っているようだ。
「げろ、げろげろげろ」
 背後からげろげろとうなる声が近づいてきた。蛙の顔をした男だ。
 私は無我夢中で玄関を開け外に出た。
「お待ちしておりました」
 玄関を開けると湯屋できるけえがほほ笑んでいた。

 私は愕然がくぜんとしながら背後を振り返った。
 玄関の扉を開けたはずだったが、背後には湯屋の扉が鎮座していた。
「どういう、こと、なんだ」
 私は壊れかけのからくり人形のように、ぎこちなく言葉を紡いだ。
 きるけえは私の問いには答えず、しずしずと近づいて潮でごわついた私の衣類を脱がせにかかった。
「自分で出来ますから」
 口ではそう言うものの、体はきるけえの手を振りほどくことが出来ない。
 肩に引っかかった上着が足元に落ちると、きるけえは私の腰にすんなりとした両の手をあてがった。

 薄い布を湯に浸しながら、きるけえが棒立ちになった私の体を拭きはじめた。
「ここにひどい擦り傷が出来ていましてよ。一体何をなさっていたのです」
 きるけえは私の心の声を読めてしまうのだから、何が起こったのかははっきり分かるはずだ。
 答えない私をいたぶるように、きるけえは私の臀部《でんぶ》の擦り傷を薄い布でこすり上げた。
 指摘されるまで傷がある事にすら気づかなかったのに、傷を指摘されてこすり上げられたとたん激しい痛みが襲った。
 私は思わず臀部でんぶに手をまわして、傷をこすり上げたきるけえの髪を鷲掴みにして痛みをやり過ごした。
「何と激しいお方」
 太腿の付け根から私を見上げるきるけえと目が合うや否や、きるけえが大蛇のように私自身を飲み込んだ。

 きるけえに飲み込まれた部分から大蛇の毒が回ってくるように、私の全身が朦朧もうろうとしてきた。
 脱力した全身を支えきれず床に崩れ落ちそうになる私の臀部《でんぶ》を、きるけえが両腕で支える。
 細い腕のどこから力が漲《みなぎ》ってくるのか分らぬが、きるけえは難なく私を湯船へと導いた。
「このような傷を作ってまで、旦那さまは何をされておられたのです」
 知っているくせに――。
 私はもうろうとしつつも毒づいた。
「お話してくださらないのですね」
 頭を円を描くように揉みほぐしていく。
 とむが言っていたように、何かの呪文を書いているのかもしれない。
 だが私はその手を止める事が出来ず、ぼんやりと口を開けたまま呼吸をしていた。

「旦那さまは本当に意地悪な方です。お優しい態度のくせに、心を決して開いて下さらないのですね」
 すねたような口調で、きるけえは私の左手をその心臓へと導いた。
「あなたのそばにいるだけで、私の心はこんなにも跳ね上がりますのに」
 つきたての丸餅のような左胸の直下で、鼓動が一定の拍動を刻んでいるのが伝わった。
 きるけえは妖女かもしれないが、確かに私と同じ生の鼓動こどうを刻む存在であった。
「私の心を聞いてくださいな。あなたを求めて、私の心は飛び跳ねているのです」
 否応もなく、私の頭は窒息しそうなほどきつく両の胸の間に押し付けられた。
 その肌からは、かすかな野の花の香りがした。
 
「あなたの心の臓はまるで氷のよう」
 私の頭を解放したきるけえは、その右手を私の左胸に伸ばして胸筋を円を描くように手のひらで何度も撫でまわした。
「私と同じ時を刻んでくださいな」
 言葉と同時に、私の拍動がきるけえの拍動と同期するのが分かった。
 不味い――。
 もうろうとした私の頭に警鐘が鳴った。
 私は解呪の呪文を暗唱しながら、きるけえが私の心臓にあてがった手のひらをゆるりと取った。
「本当に氷のようなお方」
 立ち上がった私の腰に手を回すと、きるけえは臀部でんぶに負った傷を五本の指で確かめた。
 痛みに交じって、得も言えぬしびれが襲ってきた。
 きるけえの手の動きに比例して、私の脳は本能に占領されていく。
 私はだらしなく口を開けたまま、なすすべもなく私自身をきるけえに預けた。
 このまま獣になっても構わない、そう思った瞬間の事だった。

「ああっ」
 不意にきるけえが高い声を上げたかと思うと、私は浴槽のふちから転がり落ちて床にしたたか背を打ち付けた。
 湯船がゆさゆさと揺れ、ひのきの腰掛台が海岸側へと滑って行った。
 地震だ。
 湯屋の扉の隙間を、黄金色の毛並みの犬が鼻先を突っ込んでこじ開け、きるけえをかばう様にその体を覆った。
「とむっ」
 続いて駆け込んできたとむは、私のふくらはぎを尻尾でぴしゃりと張った。
 とむはうずくまるきるけえを侮蔑ぶべつの視線もあらわに見下すと、湯屋の外へと歩き去った。
 私は夜着に着替えると、断続的に続く揺れに足をとられつつもとむの後を着いていった。

 とむはちっと舌打ちしそうな勢いで、ずんずんと寝室に向かった。
 俺の寝台だと言わんばかりに寝台の真ん中に寝そべると、所在なく立ち尽くす私に、座れと言うように前足で寝台を二度叩いた。
「どこに行ってたんだ。地震が起こらなければ獣に転じる所だった」
 不服気に私がとむに告げると、とむは牙をむき出しに大あくびをして私の額に前足を掛けた。
 私は海岸に打ち上げられた時と同様に、棺桶の中に横たえられたように寝そべった。
 とむは私の額に前足を置いた。

『聞こえてるみたいだな。あんた良く見破ったな』
『何をだ』
 私の無言の声をとむはしっかりと拾っているようだ。
『あのくそったれ女と心臓の拍動を合わせると術に掛かりやすくなる。拍動もそうだし呼吸もそうだ。あんた昨晩呼吸を合わせられたのに気が付いただろう』
『ああ、そのまま寝てしまったがな』
『それであんたと拍動までも合わせられた事までには、昨晩のあんたは気づいてなかった。あんたが解呪の呪文と水を飲んでいたからどうにかやり過ごせただけで、かなり危ない状況だったんだからな』
『そうか。だとしたら起こすか止めるかしてくれ』
『知るかよ』
 ふてくされたように吐き捨てると、とむは私の額から前足を避けて丸くなって寝息を立て始めた。
 オオヤマネコと猫はやはり同じようなものだ。
 まったく自分勝手な生き物だと自分の事を棚に上げた私はため息をつくと、眠くもないまま目を閉じた。


 日暮れの地震は一度きりだったようだ。
 いつの間にかとむと一緒に丸くなっていた私が目を覚ました頃には、寝台が朝日に照らされていた。
「とむ、朝だ起きろ」
 とむは耳をぴくりと一度だけ動かすと、私の声など聞こえぬ様子で丸まったままだった。
「先に行くから」
 身づくろいを済ませると、私は水を一口飲んで解呪の呪文を三回唱えた。「握り飯の具は梅と昆布、服の色は薄緑と白」
 訓練の一環である昼食の握り飯の具と、きるけえが着ている服の色をあてずっぽうで予想した。
 とむは面倒くさそうに大きく口を開けながら伸びをすると、のそりと寝台から床に降りて私を階下へと先導した。

「昨晩は大変失礼を致しました。夕食の用意もできず申し訳ありません」
 きるけえの服は上身頃は体にぴったりと添いつつも、腰から下はりんどうの花のような仕立てで若草色だった。
 首元をすっかり隠すような変わり襦袢じゅばんが白色だ。
 中々良い滑り出しだ。
 とむをちらりと見るが、とむは寝そべっているばかりだった。
「お怪我が無かったようで安心しました」
「怪我?」
 私の言葉にきるけえは怪訝けげんそうな顔をした。
「ええ。昨日の日暮れにひどい地震がありましたでしょう。怪我をされてはおらぬかと。あなたも私と共に湯屋におられたではありませんか」
「いえ、私は昨日湯屋には足を運んでおりませんがはて」
 手に乳鉢にゅうばちをもったまま、きるけえはきょとんとした顔で私を見つめた。

「いやいや、昨日地震がありました時にあなたは確かに」
「昨日の日暮れ頃は、中庭で黄りんどうの花を陰干かげぼししておりました」
 きるけえは乳鉢を食卓に置くと、困惑したようにため息をついた。
「その後から記憶が途切れているのです。目が覚めた時にはもう朝でして。旦那さまに夕食もお出しできず申し訳ありません」
「いえいえ私は朝まで寝入っておりましたので全くお気遣いなく。それよりも、本当に私と一緒に湯を使った覚えが無いのですか」
 私の脳裏に、きるけえは次元のひずみを生み出す存在だと言うとむの説明が思い浮かんだ。
 もしあの地震が次元のひずみの現れなのだとしたら、今目の前にいるきるけえは何者だ。
 昨日日暮れの湯屋にいたきるけえと、目の前で困惑したように私を見つめているきるけえは別次元の存在なのだろうか。
 それとも、単純にあまりの衝撃に気を失っただけなのか。
「本当に、何も覚えておられないのですね」 
 私の言葉に、きるけえは悲しげに首を縦に振った。
「朝食にしましょう」
 諦念ていねん交じりの微笑を浮かべると、きるけえはぽんと手を一たたきした。

 今日もまた軟らかめに炊かれた白米が出された。
 実山椒みさんしょうと干しわかめ、里芋の味噌汁にカレイの干物とこれまた私の好物が並んでいた。
 私の嗜好しこうは完全に読まれているのだと改めて思わされる。
 カレイの干物をとむがじっと見ていたので、骨を避けてほぐした身をとむ用の餌皿に入れた。
 とむはふんふんと鼻を近づけて、鋭い牙を見せながら旨そうに咀嚼そしゃくしていた。
 黄金色の毛並みの犬は一足早く食事を終えていたようで、干しイチジクを茶請ちゃうけにするきるけえの足元に伏していた。
「では行ってまいります」
「お気をつけて。昼食はこの子に持たせます」
 きるけえは玄関で私に頬を寄せ、ほっそりした腕を私の腰に当てがった。
 私はさりげなく身を離しながら一礼すると、とむと連れ立って工場の方角へと向かった。

 工場が左手方向に見えてきたあたりで、とむは海岸方面へ曲がった。
「工場に顔を出さなくていいのか」
 私の声に応じることもなく、とむはずんずんとなだらかな傾斜を降りていく。
 見慣れた猫の柄に似つつも、虎のようにがっしりとした四肢ししで砂地を掴んで走り始めたとむに、私は全く追いつくことが出来なかった。
 昨日とは打って変わっていかにも雨が降り出しそうな鼠色ねずみいろの空だったが、日差しが無い分かえって過ごしやすい。

「もう無理だ……」
 砂を存分に浴びてはしゃぐとむと対照的に、とむを追いかけて砂地を走った私は訓練前からすっかりへとへとになってしまった。
 浜昼顔はまひるがおを布団代わりにして崩れ落ちた私をあざ笑うかのように、砂まみれのとむがじゃれついてきた。
「重い、どいてくれ」
 猫の顔だが体つきは虎のようにがっしりしているので、とむが腹に乗ってきて思わず胃の中のものを吐き出しそうになった。
 私はもんどりを打ちながら、とむから体をよじって逃げた。
 とむは暴れたりないようで、波打ち際に駆け寄って水面をばしゃばしゃと叩いていた。
 ひとしきり波と格闘し飽きたのか、とむは浜昼顔の上で寝そべる私の隣に腰を下ろすと丸くなった。
「まずは海の中で目を開ける練習からだな」
 私の問いにしっぽを一振りして地面にたたきつけると、とむは面倒くさそうにあくびをして再び丸くなった。
 どうやら肯定の意を示す時は、しっぽを一振りして地面をたたきつけているらしい。
 私は衣服を脱いで浜昼顔の群生脇の岩場に置くと、波打ち際へと歩を進めた。

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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