『孤島のキルケ』(19)
「あっ、綺堂の兄いが抜け駆けしやがった。きるけえを生け捕るのは俺だ」
「億だ、億が掛かっとるんじゃ」
「きるけえはワイが生け捕るんじゃ退けあほんだら」
「金じゃ、金じゃ、億じゃあ」
団子を食べていた男たちは、綺堂の後を追い、転がるように我先へと小船に駆け寄った。
このまま彼らを野放しにしては紋次郎の作戦がふいになってしまうと焦った私は、彼らを引き留めようと男どもの頭蓋を突いて回った。
思ったよりきつつきのくちばしは堅く、人間の首と頭蓋の境目はもろい事を私は知った。
私は砂浜に倒れ動かなくなった男共に構わず、綺堂の乗った小船の船尾に止まった。
綺堂の乗る船は、耳障りな音を立てながら海面に白い一本筋を立てて物凄い速さで母船へと近づいていた。
きつつきの体では風圧に負けて海に落とされかねない。
私は綺堂に気づかれないように、身を低くしながら船底にうずくまった。
船から縄梯子へと飛び移る綺堂を横目に、私はふわっと羽を風に任せて広げ甲板へと降り立った。
なるほど、これがふらんそわの言っていた空気に乗ると言うことか――。
私は羽を畳むと、海豚の顔をした男の真似をして、額から紫の光が出るのを想像した。
きるけえは船内に設えらえた湯屋にいるようだ。
私は紫の光が導くままに湯屋へと一直線に飛んだ。
湯屋の前ではふらんそわが伏せていた。
「あの大男が戻ってきたぞ」
「キルケ様への敵意は」
「きるけえへの敵意はないが、紋次郎への下剋上でも考えているかもな」
ふらんそわは耳をぴくりとさせたきりで、また伏せの体勢に戻った。
湯屋と脱衣所を隔てる扉は薄く開かれており、強いヨモギの匂いが充満していた。
「賢しらな事をしおってからに。誰がいらぬ知恵をつけおった」
いつの間にやってきたのやら、私の後ろでこの事態を引き起こした元凶であるいしゅたるが、ぶすくれた声で唸っていた。
久しく献上されていなかった荒くれた若い男達を腹いっぱい食い散らかしたいしゅたるは、強い薔薇の香りを放ち荒々しい気に満ちていた。
今のいしゅたる相手では私が愛、愛とつぶやいても力を削れそうにない。
ただ、いしゅたるがヨモギが苦手だと言うのはかなりの朗報だ。
私はいしゅたるに構わず、薄く開かれた湯屋の中を覗き込んだ。
湯船の中できるけえは紋次郎の胸板に自らの背を預けていた。
紋次郎の手が肌を滑るのを堪能しているきるけえは、浜昼顔の褥の上で私と重なった時のようにうるんだ瞳をしていた。
「相変わらず手の早い男だ」
ヨモギの香りに秀麗な顔をしかめながら、いしゅたるが呆れ声を出した。
「素敵なお方だこと」
きるけえは頬を上気させながら紋次郎に向き合うと、緩く結い上げた髪の中から膏薬の入った二枚貝を取り出しそうとした。
「私にそのようなものは必要ありません。ただそのままの貴女が欲しい」
まっさらな紋次郎の唇がきるけえの唇を捉えた。
心なしか、きるけえの表情は動揺と高揚が混じっているように見えた。
「綺麗だ」
こいつは根っからの女たらしだ――。
きつつきになった私は人間の男女のまぐわいを見たところで何の感興も起きるわけがなく、綺堂の様子を見に戻ろうとした。
だが様子を見に行くまでもなく、彼の居場所はすぐ知れた。
「円綺堂義兄弟の誓いに賭けて、わが義兄、小出紋次郎の助太刀を致すーっ」
船が揺れるような足音と共に佩刀した綺堂が脱衣所に飛び込んできた。
ふらんそわが動きを止めようと、とっさにその尻にかぶり付いた。
「綺堂の兄いっ、抜け駆けはいけませんぜ」
「億は山分けしましょうや」
「一人で生け捕りはずるいや」
引き続いて私が仕留め損ねた幾人かが、脱衣所に駆け込んできた。
「助太刀致すーっ」
大音声と共に綺堂は尻にふらんそわをぶら下げたまま、がらりと湯屋の扉を開けた。
綺堂はまるで洗いかけの大根を桶から引き抜くように、湯船に浸かるきるけえを片手で持ち上げると小脇に抱えた。
「兄いがきるけえを生け捕りしやがった」
「きるけえを都に売り飛ばせば、五億にゃなっただろうにな」
続いて走りこんできた男たちが、てんでばらばら好き勝手にわめき散らす。
「どういう事です」
綺堂の小脇に抱えられたままのきるけえは、無表情で紋次郎に問うた。
紋次郎は問いに答えることはなかった。
「綺堂、きるけえ様を放せ。彼女に粗相のないようにときつく言ったはずだが」
その言葉に綺堂は湯船にきるけえを放り投げたので、きるけえは足を大きく広げて逆立ちしながら湯船に飛び込んだ。
「おおっ。良い眺めじゃ」
「こりゃ立派な観音様じゃ。十億でも売れるぞ」
男たちは逆立ちで湯の中に突っ込んだきるけえを値踏みするばかりで、誰一人心配するものもいなかった。
ただ一人紋次郎だけがきるけえを助け起こし、綺堂の非礼を平謝りしているばかりだった。
「いつもこうじゃ。あの時も、あの時もあの薄らとんちきは我に恥をかかせおって。許さんぞ、許さんぞエンキドゥ」
いしゅたるの怒気が、ヨモギのにおいを打ち消す強い薔薇の芳香となって風呂を満たした。
いしゅたるが放つ薔薇の芳香に呼応するように、綺堂の尻に噛みついていたふらんそわは、その牙を岩のような首に突き立てた。
「良いぞ犬。天の牡牛に変わりて、あの薄らとんちきを今度こそ懲らしめてやれ」
「イシュタル‼」
きるけえはイシュタルの存在に気づいたようだ。
「キルケよ。我を呼び捨てにするとは大した度胸よな」
いしゅたるはその姿を肉化させ、紋次郎にもはっきりと見えるようにした。
「久しいな、ギルガメシュ」
紋次郎は目の前の空間から突如現れたいしゅたるに怯むことは無かった。
紋次郎は干しヨモギが入った巾着袋を、いしゅたるに向かって差し出した。
「いつもいつも無駄に賢しらな男よな」
「何なのです、この女は」
紋次郎はきるけえに尋ねた。
「彼女はイシュタルと言う異形のものでございます。私はこの者に呪われているようなのです」
「ならば話は早い。実は私達は、ウツボ海の漁業組合からタコつぼ湾の化け物捕りを依頼されてここにやってきたのです。なるほどこの者が元凶と言うわけだ」
紋次郎が話している間も、綺堂とふらんそわは格闘を続けていた。
綺堂は頸動脈にかみついたふらんそわを引きはがして床に叩きつけた。
「熱くなるな。ばびろんの大淫婦に使われてどうする」
私の放ったその言葉にはっと動きをとめたふらんそわは、肉化したいしゅたるには目もくれずじっときるけえを見守った。
「我を忘れたというか、ギルガメシュ」
肉化したいしゅたるは、わなわなと怒りに震えていた。
「貴方は誰だ。私には全く覚えがない」
興味がなさそうにあしらうと、紋次郎はきるけえを他の男たちの視線から隠すように立った。
「綺堂、手前ら。何故俺の命令に反してここに戻ってきたかは今は聞かぬ。船中のヨモギを絶やすことなく燻し続けておけ」
「はっ」
綺堂達は弾かれたように湯屋の外へ出て行った。
「ヨモギ如きで我がひるむとでも思うてか。明星の大神イシュタルに対して何たる侮蔑」
いしゅたるはよく響く透き通った声で紋次郎を詰った。
だが紋次郎にはもう何も聞こえないようで、いしゅたるには目もくれずきるけえの腰に手を這わせて唇を合わせた。
「私を愛してくださいますか」
唇を離すと、きるけえが祈るような面持ちで紋次郎に尋ねた。
「愛しましょう。あなたの事も」
きるけえの顔が複雑気に歪んだ。
きるけえは自分ただ一人だけを愛してほしいのだ。
きつつきに変化する前に、きるけえの呪いを解く愛はその愛ではないのだと私は伝えた。
だが必死の叫びは伝わらなかったらしい。
「私には三河に妻が一人いる他に、四人ほど愛人がおりますが宜しければぜひ」
「あなたは浮気な方なのですね」
きるけえははっきりと落ち込んだ表情で、紋次郎から身を離した。
「浮気ではありません。全員大切な私の宝です。無論貴女も」
私の隣では全裸になったいしゅたるが、美しい顔をゆがめて紋次郎に呪いの言葉をかけていた。
何ということはない。
明星の大神だの何だと偉そうに宣っていたが、紋次郎のかつての姿であった男に酷く振られた事を引きずっているだけだ。
そう思うと、肉化した上に全裸にまでなったのに、自分が呪いをかけた女を口説いているのを見せつけられている事をどうにもできないいしゅたるが滑稽でたまらなかった。
いや、何かがおかしい。
普段のいしゅたるならば、何をおいても自分の思い通りにせねば気が済まぬ筈。
おめおめとこのような扱いを受け入れる存在ではないはずだ。
「ヨモギは化け物封じに効くとは真実のようですね」
ふらんそわが私に小声でつぶやいた。
「ああ。愛と言う言葉も効くぞ。ただし、胸が苦しくなるような恋ではない。広い、海のような母のような大きな愛だ」
私の言葉に、ふらんそわは愛、愛とつぶやきはじめた。
きるけえと紋次郎は、いしゅたるや私たちの存在も忘れてひとしきり睦みあった。
つい一日も経たぬ間に、私の事など忘れたように目の前の男に目を潤ませて足を開くきるけえを、私はきつつきの視線で見つめていた。
月の姫君のように、羽衣一つで生まれ変わりそれまでの思いもすべて忘れられるのは便利なのやら哀れなのやら私には判断がつかなかった。
ふらんそわは祈るように愛、愛とつぶやき続けていた。
ヨモギの芳香とふらんそわの愛の祈りのおかげか、いしゅたるはいつの間にか姿を消していた。
情を交わし、何度もきるけえを法悦へと導いたと言うのに、紋次郎は全く獣になる気配もなかった。
ひとしきり睦み終えた紋次郎ときるけえは湯屋を後にし、長い船室の廊下を並んで歩いた。
私とふらんそわも、紋次郎の部屋に入る事となった。
紋次郎は私に与えられたのと似た寝台に腰掛けると、きるけえを隣へ座らせた。
「それにしても不思議な事もあるものです。本当にこちらのきつつきも元は人間だったと」
「ええ。先ほど湯屋に現れたイシュタルの呪いです。何とか呪いが解ければ良いのですが……」
やむにやまれぬ事情で私をきつつきにしたのはきるけえその人なのだが、細かい事情は話さず全ての責をいしゅたるに押し付けるつもりらしい。
まったくもって大した女だと私は思った。
「旦那さまも耳にされた通り、獣や半獣人に変えられてしまった者たちが島で暮らしております。何とか助けて元通りの人の姿にしたいのですが、人の姿に戻すための材料が足りないのです」
「材料ですと。ではきるけえ様は獣を人間に戻す方法自体はご存じなのですか」
「ええ。その前に、わたくしをきるけえ様などと呼ばないでくださいまし。契りを結んだ男女の仲にしては随分他人行儀ではございませぬか。どうぞ名前で呼んでくださいな」
「そうしたいのは山々ですが、そうすれば私は仕事も部下も忘れ、今すぐ貴女にのめりこんでしまいそうだ」
きるけえはぼうっと頬を桃の花のごとく染め上げ、黒真珠の瞳を潤ませて紋次郎をうっとりと見つめていた。
これが計算されつくした媚態であれば紋次郎ほどの遊び人であれば直ぐに見破る。
ところが自然にあふれ出る媚態なので始末に負えない。
きるけえは足元に侍るふらんそわの頭を撫でた。
「実はこの子も元は人間だったのです」
「この犬はまことに珍しい。見たこともないような福耳で黄金色だ。さぞや縁起物として珍重されそうだが、元が人間ならば売りには出せそうもありませんな」
「この子は特別ですの。絶対に誰にも渡しませんわ」
「そりゃあ妬けちまう」
「旦那さまは特別ですわ」
きるけえがふふっと声を立てて笑った。
私はきつつきとなったはずなのに、血が逆流するかの如き苛立ちを覚えた。
朝には私と浜昼顔の上で二度も睦んだ女が、夜にはすべてを忘れて新しい男に媚を売っている。
本当にこれは呪いなのかと私はきるけえを疑った。
きるけえは元から操と無縁の女ではないのかと思うと、きるけえに対してわずかに残った同情の念が、私の頭から消し飛んだ。
私は怒りと苛立ちのままに、私の身に起こった事をありのままに紋次郎にまくしたてた。
言葉が伝わらないのは承知の上だ。
浜辺でいきなり唇を奪われたことも、湯屋で何度も迫られたことも、月の明かりの下で手を伸ばしたことも。
そして今朝、浜昼顔の下で何度も情を交わしたことも――。
紋次郎は私の目を見ると、にやっと笑った。
「私の言葉が分かるのか。分かるなら机を二回左の人差し指で叩いてくれ」
祈るような気持ちで私が鳴くと、紋次郎は机を二回左の人差し指で叩いた。
ふらんそわがぎょっとした面持ちで、紋次郎を見上げた。
「話を戻しましょうか」
紋次郎は居住まいを正してきるけえに向き合った。
「獣と半獣人を人の姿に戻す材料さえあれば、必ず獣を人に戻せるのですか。それはどこにあるのでしょう。そして貴女は何者なのですか」
きるけえは口ごもったままうつむいていた。
「私は貴女が何百年、いや何千年生きていたとしても驚くことはありません」
紋次郎は幼子に諭すように、ゆっくりきるけえに語り掛けた。
「私は仙女や八百比丘尼とも交わった事がありまする。ゆえに貴女がとこしえの若さを保っていたとしても驚きはありません。まして貴女を化け物などと責める気はないのです。どうぞあなたの身に起こったありのままを、私に教えては頂けませんか」
「それは……」
「私は彼らの言葉を解します」
きるけえに見えない刃を鞘から抜いて突き付けるように、紋次郎は私たちを指さしながら告げた。
きるけえは覚悟を決めるように、深く息を吸った。
※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。
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